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memento mori-死との距離感-

気づいたら叔父の葬儀が終わって、ひと月が経った。
最後に会ったのは、親父の三回忌があった2年前。
その前は一周忌。さらにその前は葬儀やったと思う。

毎年正月の親戚の集まりも、ここ何年かは全然行ってないから、葬儀関連以外で会ったのは、もう思い出せないくらい前な気がする。

とはいえ、もともとめちゃくちゃ喋ったりするようなこともなかった。
久々に会ったら、最近どない?とお互い聞くくらいやった。
積極的に他者と関わったりしていた親父とは、そこは違ったなと思う。
でも、別に人見知りとかではない。

今こうやって叔父のことを思い出しながら書いてて気づいたけど、叔父のことほとんど何も知らないなぁ。

コンピュータ系の専門学校を出て、それ関係の仕事に就いていた。
でも、そこからも色々転々としていたのは、葬儀のときに棺の周りの檀家の花の名前を見て知った。

野球が好きで、大の巨人ファン。
生粋の大阪人やったから、そこは子どもの頃から珍しいなと思った。

親父と違って、スポーツもよくする。晩年はテニスに精を出していた。
釣りが好き。登山もこの数年はよくしていたみたい。

とにかく健康そのものみたいな印象のひとやったから、ほんまに訃報聞いたときは信じられなかった。
死因など聞いたあとの今も正直半信半疑ではある。

あのおっちゃんに限って?と。

なにより、家族をとても大事にするひとやった。
妻である叔母と2人の従姉妹と。

物心つく前から、仲が悪かったうちの両親と違い、
物心つく前から、仲が良かった夫婦、家族風景やった。

仕事も定年間近で、2人目の孫もこないだ産まれ、下の娘の結婚もすぐってときに、なんでやねん。

親父のときといい、兄弟揃って予兆もなくある日急にフッと死ぬなよ。

叔父に親父に、母方の祖父母に、父方の祖父に、小学5年の担任の先生に。

身近なひとの死はいつも、ある日遠い場所で突然訪れる。

故に、正直どれも全てを受け入れずにいる。
1年、あるいは数年単位で会ってないなかで、急にいなくなっている。

葬儀に出て、棺桶のなかで蒼白くなった顔を見ても、
火葬後の燃え殻となった骨々を見ても、
それから何年と時を経ても、
全てが対岸の火事のよう。

薄情なのかもしれない。
自分の父親に対してもそう思うんだから。
あるいは、身近なひとというあまりにも大きなショックから心を護るための、自衛なのかもしれない。

死がいつも遠く感じる。
非現実の極致みたいなものだから、それはそうなのだけれども。

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