「涼宮ハルヒの消失」に思う、映画を劇場で観る意味とは

突然ですが、僕は映画を観るのが好きです。…好きと言っても、月に新作映画を2、3本観にいければ多い程度なのですが。

近年、動画配信サービスが急速に普及しています。Netflixでもアマプラでも、定額でかなりの量の映画が見放題。新作映画ですら、半年そこらも待てば解禁されるんじゃないですか?エンタメへの距離が近くなると、相対的に劇場で映画を観る価値が薄くなっている、そんな気がする今日この頃。別にそれに対してもの申すつもりはないです。時代の流れだし、良いことだとも思います。

ただ、自分にとっての劇場で映画を観る意味を考えるために、少し過去を振り返りながら、筆を取る、もといキーボードを叩く次第です。

印象的な映画体験というと、いくつか思い浮かぶものがあります。

初めて父と2人で観に行った、「ミッションインポッシブル2」の濡れ場の気まずさ。IMAXで観た「マッドマックス 怒りのデスロード」の衝撃と興奮。海外の劇場で観た「ボヘミアンラプソディ」は、音楽が世界を繋ぐ瞬間を体感した貴重な経験でした。

だけど、1番最初に浮かぶのは、そして未だに濃厚に残る記憶は、「涼宮ハルヒの消失」かもしれません。

「涼宮ハルヒの消失」
2010年に公開された、谷川流のラノベを原作とするアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」の劇場版。
…映画好きを名乗りながら、浮かんできたのはまさかの深夜アニメ。

絶賛モラトリアム中かつ女子にモテない大学生だった僕には、無限の時間がありました。アニメは、そんな余剰時間を埋める趣味の一つです。きっかけは定かではないですが、アホほど暇を持て余した僕は、学部の友人3人とハルヒの映画を観に行きました。

当時はニコニコ動画が流行りだし、深夜アニメもそこそこ市民権を得初めていた時期。とはいえ、やはりまだ堂々とアニメを見るのには抵抗があった頃です。劇場にはカップルもほとんどおらず、初めて経験する独特な雰囲気でした。隣の席の「ザ・オタク」なお兄さんを横目に、「この人携帯のストラップ長門じゃんwww」なんて思いながら、謎の自尊心を保とうとしていたのを覚えています。同じ穴の狢だという事になぜ気付かない…。

だから、映画を観るコンディションは万全ではなかったです。恥ずかしさやら後悔やら、ふわふわした状態が解けやしません。
「いやー、まあね、友達の付き添いだからね。ネタにはなるでしょwそれに一回くらいアニメの映画見るのも悪くないじゃん?」
一週間かけてシリーズ一期二期を総復習し(エンドレスエイトは飛ばした)、高い交通費を払って聖地・西宮の劇場まで脚を運んだ男が、ことここに及んで自分に言い訳をする。そんな見苦しい姿がそこにありました。

上映前の映画予告もアニメ系が多く、普段の映画鑑賞のようなテンションの盛り上がりを感じません。隣の長門ストラップお兄さんは、アニメの予告のたびにブツブツ小声で何かを解説しています。うるせえ。

「やべー、しくったかな…。」
そんな事を思いながら、一応携帯の電源が切れているかの最終確認。 
すると、ブーーーというブザーと共に、上映時間162分(なっがいな!)の幕が上がりました。


スッ…と、長門のお兄さんが姿勢を正すのを、肩越しの気配で感じました。


ざわめきが消え、シーンとした劇場。真っ暗なスクリーン。
アニメシリーズ同様、物語は杉田智和演じる狂言回し役・キョンの台詞で始まります。

「ぶっ…」

一瞬、マジで吹き出しそうになりました。めっちゃ良い音響の中で、キョンが喋っています。 たくさんの観客が見守る中、でっかいスクリーンでオタクアニメが始まるという不思議な状況。やたらと良く響くキョンのやれやれ声に、なんだか笑いと共感性羞恥とが、同時に込み上げてきます。

…ん?
…キョンが、喋っている????

確かに、キョンが、喋っているのです。

その瞬間に、ゾクゾクゾクっと鳥肌が走りました。

キョンが喋っている。

ワンルームマンションの小さなテレビで見るのとは全く違う、キャラクターの実在感。長門が、みくるが、小泉が、そしてハルヒが、目の前に生きて動いている。

妙な浮揚感は何処へやら、僕は一瞬にしてスクリーンの中の世界に取り込まれていきました。

「涼宮ハルヒの憂鬱」は、ざっくり言うと日常の中に非日常のワクワクを求める物語です。ハルヒが非日常を探し暴走する様は、日常に飽き飽きした僕に取っても非日常でした。

…それはいつの間にか、過去形になっていきました。

毎週アニメを追い、DVDで何度も見返す中で、いつの間にかアニメを見る事が日常の一部になっていきます。テレビ画面を覗き込むという構図は、否応がなしに世界の分断を突きつけてくるし、シリーズが完結し「終わった」物語も、チャリで5分のTSUTAYAに行けばすぐに取り戻せてしまいます。

自堕落な学生生活の時間を潰すために、なんとなくアニメを食いつぶす日々、それが僕の日常。「涼宮ハルヒの憂鬱」も、そんな日常の中の一部分に過ぎなくなっていきました

そんな時に、です。

映画館という「閉鎖空間」に、二次元のキャラクターであるハルヒたちが、慣れ親しんだ声と形そのままで、確かに存在しているという臨場感。

真っ暗な劇場の大きなスクリーンは、画面の中と外の境目を感じさせず、あるのは「第3の壁」のみ。劇場中に響く音響も、この空間が外界から遮断された事を暗に感じさせます。日常から切り離された世界の中で、日常を取り戻そうとするハルヒたちの物語を、僕は必死に追っていました。

キモいオタクの戯言と思われるかもしれません。

だけど、あの瞬間、確かに僕は「非日常」の中にいたのです。

この駄文をまとめましょう。僕が劇場に映画を観に行く理由はシンプル。非日常を追い求めるためです。幕が開き、現実と非現実の境目が崩れる。その瞬間のゾクゾク感を味わうためなのです。

残念ながら僕のもとには、未だに美少女転校生はやって来ません。
未来人や異世界人や宇宙人の友人も、出来そうにないみたいです。

それでも、あの「閉鎖空間」に入り込む事で触れられます。飽き飽きした日常をぶち破る、『非日常』に。

そして、非日常に触れる事で、相対的に日常の輪郭が濃く浮かび上がってきます。平穏、退屈、だけど平和な日常を噛みしめ、僕の世界を大いに盛り上げるモチベーションを、取り戻すのです。

幕が閉じ、閉鎖空間の旅の終わり。パーッと明るくなる照明が、じわじわと日常を照らし出していきます。

ゴソゴソと携帯の電源を入れ直していると、長門のストラップのお兄さんと目が合いました。僕たちは無言で、だけどコクンと小さく頷き、何かを確かめ合いました。

こうした“戦友“に出会えるのも、劇場に脚を運ぶ意味なのかも、なんて。

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