【バレンタイン短編】走ったからといって、間に合うとは限らない

「望、今日がなんの日か知っているか?」
「んー?」
 伝統的な木造家屋。その縁側に、一組の男女が座っていた。
 一人は、年齢不相応に鍛え上げられた巨体を作務衣で包んだ総髪の男。無名異七紫。
 もう一人は、学校指定の黒セーラーの上にダッフルコートをまとった銀髪銀眼の少女、無名異望だ。
 二人は揃って湯呑を手に持ち、のんびりと茶を啜っていた。
 時刻は朝の七時半。そろそろ学校に行く支度を始める頃合いだが、今日の彼女はすでにそれを終え、いつでも出かけられる状態だった。えらく気合が入っている。なら理由は一つしかない。
「今日でしょー? あれあれ、バレンタインデー」
「そうだ。バレンタインデーだ」
 縁側のゆるい雰囲気に当てられてか、二人の口調もそこはかとなくゆるい。
「でもあれさー、うちの学科に関しては全員カップルみたいなもんだし、全員が全員本命チョコ渡すようなもんだから、イベントとしてつまらなくない?」
「それを加工科に言えば、悲鳴が上がること請け合いだな」
 益体もない言葉を交わし、茶を啜る。
 そして七紫は、先ほど望から発せられた言葉を反芻し、からかうような笑みを浮かべた。
「では昨日作っていたチョコも本命か」
「いやお祖父ちゃん、そりゃ乾くんに渡すんだし本命でしょ」
 七紫のほうを向いた彼女は、毛ほどの動揺もなくさらりと言ってのける。
 彼は思わず遠い目になった。寒空は今日も澄み渡っている。
「……春が近いなぁ」
「いやなに急に」
「孫娘が恋に積極的で素晴らしいと思ってな。いや我が親友にもこれほどの積極性があれば面白かったのだが―――」
「あ、真鉄さんの自慢話始めるなら学校行くね。聞き飽きてるし」
 七紫が黙った。図星だったらしい。
 間を埋めるように、七紫は音を立てて茶を口に含む。巨体に見合う大きさの手のひらに収まっていた湯呑は、あっという間に空になった。
「さぞや気合の入ったチョコだろうなぁ」
「抹茶チョコだよ。お祖父ちゃんのぶんもあるから食べてね」
「それは重畳。お茶請けにしてじっくりと味わうとしよう」
「自信作です」
 そう言って力こぶを作った彼女は、思い出したようにその姿勢のまま腕時計を確認する。
「うわー! 七時半過ぎてる!? 早く行かないと!」
「うむ、急げよ」
「この重役出勤ー! 知ってて話してたでしょー!」
 文句を叫んだ彼女は、残っていた茶を喉に流し込み、縁側の近くの部屋に放り投げていた学校鞄を手に取る。
「この家は学校に近いのだから、そこまで急ぐ必要もなかろう」
「今日はロッカー、机の中、手渡しの三段構えなんだよ! 急がないと!」
「熱烈だな」
「なんか面白そうだし!」
 色恋沙汰の重要イベントを『面白そう』で片付け、望は学校へと出かけていってしまった。実際に重役である彼も急がなければならない時間だが、今日は気も進まないのでギリギリまでお茶を飲んでいようと心に決めた。
 そうと決まれば、まずはポットと急須をここに持ってこなければ。重い腰を上げ、台所へと足を向ける。台所は昨日の調理道具が流し台に無造作に積まれていた。夜まで試行錯誤していたから、洗う時間がなかったのだろう。その横には今日の朝食で使われた器もあった。これを洗っていたら遅れても咎められないのでは、などという思考が脳裏に閃いたが、間違いなく無意味な結末を迎えるので、先に帰ったほうが洗うこととしよう。
 一人納得して、一足早く彼女の自信作を味わうために、冷蔵庫の扉を開ける。そこには予想通り『おじいちゃんへ』と書かれた器があり、ひとつまみほどの大きさをしたチョコがゴロゴロと入れられていた。
 そして横には、大きなチョコが三つ。上に被せられたサランラップの上には、荒々しく『K!!!!』の文字が書き殴られていた。
 なるほど。
「これは三段構え失敗だな」
 未包装だし、近いとはいえ往復すれば時間もかかる。七紫はすべてを悟った。
 自分のためのチョコをつまみ、口に放り入れる。チョコの甘さと抹茶の苦さが、ちょうどいい塩梅で口の中に広がっていく。決して苦すぎず、そして甘すぎない。なるほどどうして、茶が進みそうな味わいだ。
「これは美味い」
 これをサプライズで三連続ももらえるのだから、彼女に想われている果報者はさぞ嬉しかろう。
 そう思いながら、書き殴られた文字を見る。その下にある見事なチョコを見る。いくら感慨に浸ろうが、その現実は変わらない。
 ふと、遠くからけたたましい音が響いた。玄関が勢いよく開く音。
 三段構えの『さ』の字もない現実に気づいたおっちょこちょいが、どうやら帰ってきたらしい。

(著者:バシナル)


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