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二つの時代の国宝図屏風

 古代から近世にかけて、多くの屏風絵が描かれた。特に安土桃山時代から江戸時代にかけて、ほとんどの城郭には屏風が置かれ、それによって屏風絵は芸術としてもその地位を高めていった。屏風絵は、折ることで立体感が生まれ、さらに正面から見るだけでなく左右に視点を変えることで絵に変化が生まれ、鑑賞者が様々に楽しめるように工夫されている。薄暗い日本家屋では、蝋燭の明かりによって鑑賞するといった事も行われていた。
 室内を仕切ることで場を区切り、空間を演出する機能をもつ屏風や襖には、権力を象徴し、場を荘厳するなどの目的のために、絵が描かれた。
 織田信長や豊臣秀吉などの天下人が統治していた桃山時代には、城郭に絢爛豪華な屏風絵が好んで描かれていた。建造物の内部には、金箔の地に緑青や群青などの鮮やかな色彩を施された金碧障壁画が多数飾られた。 《檜図屏風》《唐獅子図屏風》などは狩野永徳が築いた桃山様式を明確に示している。
 キリスト教布教の為、当時は南蛮と呼ばれたスペイン人やポルトガル人などが来日し、南蛮屏風も描かれた。
 また千利休によるわび茶の文化が天下人にも愛された。長谷川等伯も千利休と交流を深め、この時の豪商が所有する中国宋元画に学んだとされている。
 能登の七尾に生まれた長谷川等伯は、30代の頃京都に上京し、秀吉の創建した智積院にて息子の久蔵と共に金碧障壁画を描いた。彼が息子を亡くした後に描かれた国宝《松林図屏風》には、そういった絢爛さは排除され、禅や侘びの境地を宿している。墨一色で描かれた霧に包まれた松林が、ゆらゆらと漂う幽玄の美を醸し出している。濃淡を用いて遠くの山や折り重なる松林の遠近が表現され、描いている部分が少なくても広々とした空間の拡がりを感じさせる。彼が私淑した南宋時代の画僧牧谿から影響を受けたとされる本作品は、日本的水墨画の最高傑作だともいえる。

 江戸中期からはより写実的な屏風絵が現れてくる。江戸時代中期を代表する円山応挙は、眼鏡絵から端を欲し、対象をありありと描く「写生画」の新境地をもたらし、当時の京都を席捲するほどの人気を得た。
 
 国宝《雪松図屏風》は、応挙における写生のひとつの到達点だと言える。またシンプルさを極め墨と金泥と紙の白色のみである。右隻の雄松は堂々とした松が屹立する様子、左隻の雌松は雪の重みでしなだれる松の様子が描かれ、バランスのとれた立体的でリアルな写実表現となっている。雪の部分は描かない事で、松にふり積もる柔らかな雪を見事に表現している。「松」という主題の持つ永遠不変、長命といったイメージなどから、本作が実生活において吉祥を呼び込む役割として、応挙のパトロンであった三井家でも重宝され、重要な行事などに使用されてきたことが、うかがえる。


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