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大悟の生姜物語 〜1章:東京編〜(Daigo's Ginger story 1st @Tokyo )


【生い立ち】


東京の郊外、多摩の河川敷の牧場で生まれ育つ。
なぜか牛がいる環境で、一度牛乳が出るか牛さんのお乳をギュッと握ったら牛さんがめちゃくちゃ驚いた顔で見てきたの覚えてる…あれは牛さんもショックだったよなぁ…まだ4~5歳だから許してね。
元々は普通の高校、大学へ通い、会社へ就職と一般的な日本人の道を歩んできた。
この頃は将来の目標も特になしで、実家の牧場に思い入れがあったので農学部へ進学。
高校、大学での成績は中の中。
ただ、研究室はちょっと高望みをした結果、失敗して最底辺の研究室へ...ブラック企業のような環境だったな。ワンマンな教授のもと、山羊の胃の微生物を研究する羽目に。しかも微生物を取るために、山羊の胃には外部と直結したパイプが埋め込まれていて、苦しむ山羊と接する苦痛な作業...今となっては精神を鍛えられた良い思い出です。

【バイトと生姜、食の感動】


バイトも色々とやってたな。
工事現場、宅急便の荷物の仕分け、コンビニ、塾講師、草刈り等々...短期間だし、正直一貫性はない仕事の選び方。そのバイト代で友達と飲みにいくのが楽しみなくらい。
そんなある日、大学の友人と家の近くにある「生姜料理専門店しょうが」へ。
元々、生姜は嫌いな食材だった。屋台の焼きそばに入っている”紅生姜”が苦手で...なんでこれが添えられてるのか?と困るくらい。
だからこの日も、「生姜かぁ...食べられるかな...」と不安になりながらお店へ。
店に入ると、フワッと食欲を唆る良い香りが...!!!生姜の爽やかな香りがまた良く合う...
一気にお腹が空く。店員さんにオススメを聞き、迷うことなくそれを注文。
やってきたのが一番の名物
【とんきこ(豚バラ軟骨をトロトロに煮込んだもの)の生姜ガーリック焼き】
圧力鍋で軟骨がトロトロになるまで煮込まれた豚バラ肉を、生姜と大蒜の醤油ベースの濃厚ソースでじっくりオーブンで焼いた一品。もう香りから美味しいと分かる。
一口食べて、美味しさのあまり言葉が出なかった...本当に美味しいものに出会うと言葉が出ないというけど、それは本当でした。
そして紅生姜が嫌いなのに、添えられていた角切りの紅生姜へも箸が伸びてしまう...
ご飯をおかわりしてしっかり完食。
実は、それまで食に大きな興味はなかった。生きるためほどではないけど、ジャンクフードも気にせず食べ、空腹を満たすことがメインの食生活だったかな。
でも、この生姜料理専門店へ来た瞬間
食の感動スイッチが押されたのか、一気に食を「楽しむもの、幸せになるためのもの」として認識するようになった。
この当時、塾講師のバイトをしていたのだが、その翌週には塾長へ辞める旨を伝え(勿論頃合いを見計らって辞めるよう話をしました)、生姜料理専門店へバイトの応募の電話を。
バイトの面接は当時生姜料理研究家でありオーナーであった森島土紀子さん。ただ開店準備で忙しいのか、たった5分くらいで終了...暫く経っても連絡来ず、諦め半分で電話してみると「え?採用だよ。」と。
そんな流れで、塾講師を辞めた後に生姜料理専門店でのバイトが始まりました。


【生姜料理専門店での仕事の日々】


飲食店だから長時間。
でも”賄い”が楽しみ楽しみで、時間は苦にならないくらい。
当時の店長であり、今の生姜の師匠である山田高央(通称:山さん)にはほぼ毎日怒られてたなぁ。飲食のいろはも知らず、また要領の悪い不器用な性格で...でも山さんの愛ゆえの叱責であり、絶対賄いは食べさせてくれた。
学生バイト風情だったが、どうサービスするとお客さんが喜ぶのか、どんな風に料理を紹介すると食欲を唆るか、本や漫画などから学ぶ熱の入れようでもあった。
だからか、怠惰なバイトの後輩に対して怒ることもあった。熱かったなぁ…
山さんの最高の料理をお客さんに提供し、お客さんが笑顔になって帰っていく、それで僕も幸せになってた。

そして、山さんの料理を真似して宅飲みするように。
家族もいる実家なのに自分の部屋に友達呼んで、4~5品は当たり前。時には10品以上も作るときもあったな。笑
勿論生姜は必ず料理に加えてました。

そしてひょんなことから、社会人の料理サークルに加わることになり"料理対決"のイベントに参加することも。
しかも、一度はプロの料理研究家である加瀬まなみさんと対戦。
3品勝負でオーディエンスの票による勝敗が決まる対決、2品はボロ負けしたものの、「生姜塩麹ハンバーグ」が好評を得て1品だけは勝ちを得ることが…!
このハンバーグも、生姜料理専門店の系列店の店長からアドバイスを頂き、仕上げた一品で、今でもハンバーグは誰にも負けない自信があります。

そして就職活動中に研究室の教授と大喧嘩し、研究室を辞めるという超破天荒な行動に…(単位はテストで稼ぎ無事卒業はしてます。)
そんな中でも生姜料理専門店でのバイトは続け、空いてる時間の大半はバイトへ。
就活でのピーク時も、欠かさず働きむしろ息抜きとしてました。

【食品会社の永谷園へ就職】


こんな破天荒ですが、なぜか老舗食品会社の永谷園へ内定を。
しかも学部卒なのに開発部へ配属…(おそらく研修時に大量の商品アイデアを提出したため。アイデア考えるのが好きで、3個のところ15個くらい提出してた気がする。)

入社当初は優しい上司に恵まれていたものの、2年目以降クラッシャー上司(※パワハラで心をえぐる上司のこと)が直属に…
かなり追い込まれて当時の同期曰く「ダイゴの周辺は暗い雰囲気が漂っていたよ…」と。ただ、これもなんとか乗り越えて精神的にはだいぶ強くなりました。笑

永谷園の開発部という、傍から見たら食品の花形のような仕事に携わることができましたが、新商品を開発しても正直"生姜料理専門店時代"のような仕事への満足感はなく…
3年目を経過した頃から、この先の生き方について考えるようになりました。
そしてこのタイミングで、都内のシェアハウスに移り住むことを決めました。ここで自分の運命が大きく変わったと言っても過言ではありません。

あ、そういえば永谷園での個人的な目標が「新しい基礎調味料の開発」でした。

【シェアハウスでの出会い】


職場が蒲田の近くだったので、五反田と蒲田の中間「洗足池」。
"食"がテーマのシェアハウスで、住人は皆料理や食べることが大好き!そんな環境に毎日いるのが楽しかったなぁ。仕事で疲れてても、皆の暖かさに救われた…
このシェアハウスでは2つ、自分の運命を変えた出来事がある。

1.同世代の葛藤と活躍

同世代で今も仲良いシェアメイトは多く、全員を紹介したい!けど長くなるので人生を変えるキッカケになった一人を紹介します。
日本を代表として活躍しているカメラマン"刈馬 健太"。

ただ出会った当時はまだまだ駆け出しで、
おにぎり買うのも厳しかったそう…
でも、そんな様子おくびにも出さず、いつも明るく「世界で活躍するカメラマンになる」としっかり目標を打ち出し明言し、日々行動していた。
何度か彼の撮影に同行させてもらったことがあるが、恐ろしい集中力と熱量、そしてモデルやメイクアーティストそれぞれが自費で参加しているのに驚いた…てっきり彼らに費用を支払っているかと思ったら
「"作品"を創るために来たから、そんなもの要らない」と。
これがやりたいことに対する強さか、と衝撃を受けた。
「自分のやりたいことのために生きる」シンプルだがこの上なく難しい挑戦をしている彼の背中をみるうちに、自分自身の生き方についても考えるように。
一生永谷園で開発の仕事を惰性(←失礼な言い方かもですが💦ただ納得して商品を開発することはほぼなかった。役員へのお膳立てや上司の顔のためにやる仕事も多かったので。)で続けるのか、
それとも生姜料理専門店時代に感じた感動を届けたいという目標に向かって動くべきなのか…ただこの頃、生姜に対するこの想いをしっかり言語化することは出来ていなかった。

2.リトアニア人女性との出会い

シェアハウスに住んで1年ほど経過したある日の仕事帰り、
玄関にポツンと外国人の女性が寂しそうな顔で佇んでいた。
さすがに無視するわけにもいかず、
「どうしたの?」
「喧嘩している彼氏に会いに来た」(シェアハウス内に彼氏が住んでいた)
「とりあえず中はいる?」
「うん…」
で、共有フロアへ。
いつまでも彼氏が現れる様子がないので、丁度自分用に作っていた晩ごはんを彼女にも分けてあげることに。
で、結局現れず…
連絡先を聞かれたので教えてあげて、駅でお別れ。

で、すっかりそんなことがあったのも忘れていたある日の仕事中、その子から突然メールが。最初は迷惑メールかと思うくらい存在忘れてた…
「あの時はありがとう。困っているから相談に乗ってくれない?」
「いえいえ。オッケーじゃあ今度ご飯いこうか」
確かそんな流れで、恵比寿にて後日待ち合わせを。
「名前の由来は?」
「Rosita。小さい薔薇」
「いい名前だね」
名前もよく知らず初めまして状態で色々話しつつ、相談を聞くと
まぁ彼氏が鬱気味になって色々トラブルがあったんだと。

その後、本人から誘いがあり何度か会うことに。

全然関係ないけど、本人が勉強していた日本語がおもし面白すぎて写真とってた。

丁度、日本の生活も残りわずかで住む場所もなくなると…
実家がホストファミリーだったのもあり、少しだけ空いている部屋を貸すことに。僕はシェアハウスでいつも通りの暮らしを。
ていうかいつの間にか彼氏と別れて、こっちと付き合ってたわ。笑
(しっかり訂正するけど、寝取ったわけでなく、食事を分けてあげらたらこっちに懐いてしまったような感じです。猫かっ)

そんなある日、彼女に自作の生姜ドリンクを飲ませると
「… 私の国に欲しい」
当時は、何言ってるんだ?的に流していましたが、どこか心に引っかかる言葉でした。
この言葉が、美味しい生姜で欧州の人々を笑顔にしたいと思う、そしてリトアニアへ行くキッカケでした。
僕自身が幸せになった"生姜"で何かしたいと模索していたものの、ずっと漠然としていたものが、不意に僅かですが光が見えた瞬間です。

【ヨーロッパを目標へ】

リトアニアに限らず、他のヨーロッパの国々ではどうなんだろう…
実家がホストファミリーで海外に繋がりがあることもあり、フランス、フィンランド、スイス、スウェーデン、アメリカetc
様々な国の方と会うたびに、生姜について聞いていました。また、機会があれば僕の生姜作品を試してもらっていました。

その機会でファンランドの女性に試してもらったときの話を。
父のテニスクラブ繋がりで、外語大にいるフィンランドの方を紹介してもらいました。初めて会う&いきなり試食という環境に、その方は出会った瞬間、ガチガチに緊張していました…そりゃそうだよね💦
「…とりあえず試しに飲んでみて?」と勧めて飲んでもらうと
「!!!」と言葉にならない声、そして…満面の笑み。
その瞬間
「あぁ…僕が求めている答えはこれだ」と確信した瞬間でした。自分自身が山さんの料理で同じような幸せを感じた時、「生姜を通じて笑顔になった瞬間」と同じ顔だったからです。

欧州に美味しい生姜を伝えたい
そのためにはこの地を旅立たなくては。そう決心し、入社5年で永谷園に区切りをつけました。
ただ嫌で辞めたわけでなく、今でも永谷園時代の方とはお付き合いがあり、会うたびに刺激を勇気を貰っています。
また、永谷園の開発部で得た【商品開発力】こそ、この先の僕の一番の武器になる強力な糧でした。

永谷園を飛び立ち、次に向かったのは茨城県の木内酒造という会社。
ここはネストビールという世界に通用する日本のクラフトビールを作っている会社で、世界へ通用するブランド力とは何か?を知るために扉を叩きました。

…木内酒造は正直、この場に書けない出来事が色々あったので、気になる方には会った時に酒の肴として話しますね。
ただ肌身で世界ブランドを感じたのは良い経験です。

なので、次は高知編へ。
僕の人生録で少し長くなりますが、ご興味あればお付き合いください。

IKI:)






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