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なんていう名の悪魔

別れ際の彼の仕草がどうであれ、毎回、心に突き刺さるのはなぜなんだろう。もう3年も経つのに。もう3年もただのセフレなのに。

photo : https://page.line.me/tokyotower

タクシーは、三田に差し掛かってゆるやかな弧を描き始めた。首都高に入って数分のところだ。すると正面に、足元から聳え立つ東京タワーが現れる。眼前に迫ってくるようだ。そしてタクシーは、まるで何かの合図を送りあっているかのように、ゆっくりとタワーの周りを迂回して、カーブを曲がりきる。

「あ、東京タワー」

「ここの眺めすごいよね」

彼が渋谷からうちに来るときはいつも首都高を走らせて来ているのだろう。このルートで一緒にタクシーで帰ってくるのは、初めてだった。

「三田とか十番あたりなら、まあ引っ越すのもありだよね」

東京タワーはとうに、中層ビル群の背後に隠れてしまっていた。そのまま、溜池山王、六本木の高層ビルの水底を滑るように、車は首都高を泳いでいく。

わたしは心から首都高が好きだ。深夜、タクシー、首都高、となるとだいたい、数多の艶めかしい思い出に結び付いてしまうわけだが、まあ、それも味付けの一つ。そしてこの3年は、深夜タクシーといえばこの、同乗しているろくでなしの思い出とセットだった。

仕事終わりの深夜に落ち合って、ただ行為に及んで、体温を交わして、朝には別れる。不倫でもなんでもないのに、お互いの労働時間の過少申告を笑いながら、そうやって会う以外の手段を持たなかった。稀にまだ電車が動いている時間に会うと、照れるレベルに。その距離感が何やら魔力を持っていて(とわたしは仮説立てている)わたしたちはもう3年もこれを続けている。

4時に目を覚ました彼の身動きでわたしも目を覚ます。男の人ってみんな、パンツ、靴下、服、の順番で服を着るよな、と思いながら、その彼のかがんだ背中を眺める。靴下を履く姿って、どうしようもなく無防備だ。わたしは彼といると日常的に「あ、いま殺せるな」と思う。わたしのものではない彼を、わたしがいつでも殺せるということが、わたしにとって何らかの保険なのだ。ということをいまわたしは、真顔で書いている。比喩といえば比喩だが。軽く狂っているなと思うし、狂っているぐらいが、わたしと彼にはちょうどいいのだと思っている。

「帰るんだ」

「うん、明日はやい」

「えーさみしい」

「え?まさかの笑」

何がまさかのだよ、と口を尖らせながら、わたしはおざなりに彼の背中を抱きしめる。彼はそんなわたしを引きずるように立ち上がり、鞄を抱え、玄関に向かう。寝ぐせでくしゃくしゃになった髪のままとりあえず去るから、照れくさいのか、いつも玄関でろくにわたしの顔を見ずに出ていく。横顔で「じゃ」ってそっけなく言って。

でもなぜか今日は振り向くのだった。そして手を振るわたしに「また」と言って手を振り返すのだった。たまにそうやって、ばつの悪そうな目をして、わたしに手を振ったりしやがって、いったい、なんていう名の悪魔だ。おまえは。

その照れた顔が、針でもない、錐でもない、杭のレベルの衝撃で、わたしの胸に突き刺さるのだ。愛おしすぎる。愛おしすぎて、これは大問題だ。

重く閉まる扉の向こうで遠ざかる彼の足音に耳を澄ませて、わたしは、深く息を吐く。

これは、都会的退廃も性的倒錯もなにもない、ただの、ただ、ただ3年もずっと恋し続けている、というだけの話だ。身も蓋もない。いかんともしがたい。

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