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キ上の空論#15「朱の人」感想

4月に観劇した、キ上の空論#15「朱の人」の感想について書きます。

※この記事はネタバレを含みます。

あらすじ
中学生のときに「致した」テツキは、見栄っ張りで、大したことない話を大げさに言う。けれども弟の亜月にとっては、太陽のような存在だった。高一で出会ったクラスメート(※サッカー部の彼氏持ち)に本気の恋をしたテツキは、彼女が入っている演劇部へ。そこで一本のビデオを借りたことで、彼の運命が変わる。演劇にのめり込んでいくテツキは高校を中退し上京、脚本家・演出家の道を志す。「舞台」という魔物に憑りつかれ、周囲を巻き込みながら、やがてテツキは壊れていく――。

全体の感想・やさしさに包まれた残酷さ

観劇後に一番最初に思ったのが、「やさしさに包まれていて残酷だな」でした。

おかしくなったテツキは、演劇の道を諦め、敵対視していた水上心と対面します。水上心になぜ演劇をやめたのかと問われたテツキは、やめてない、まだ勝ててないと言い出します。
ラストシーン、再び脚本を書き始めたテツキに対して、亜月は「本当はまだ治ってないでしょ」と言って退場します。そして、書き続けるテツキをよそに、舞台上空から黒いポリ袋が落ちてきて終わり、となります。

黒いポリ袋は舞台上で「テツキが壊れていったことを表すもの」だったので、亜月が指摘した通り、テツキはまだ治っていないことが暗示されて終わるのです。

この結末は悲劇に分類されるのかもしれませんが、私はこれを優しいと思いました。もっと残酷にするのであれば、亜月に「もう治ったんだね、それでこそ……テツキだよ」くらい言わせてから、観客を突き落としても良かったはずです。それをせず、敢えてテツキが壊れたことを前もって提示する(そしてその後、その言葉が本当だと見せる)のは、優しさではないかと感じました。

ただ、やはりハッピーエンドとは言い難いので、残酷な結末だなと。これからテツキは、書いて、壊れて、また書いてを繰り返すと思うので……。演劇の道を閉ざせばこのループから抜けられるでしょうけれど、まあ抜けられないと思います。テツキはまだ勝っていないし、これからも多分、勝てないので(誰しもが一生勝てないのかもしれないです、演劇の「何か」に)。あの舞台の上で、テツキは一生、書いて壊れてを永遠に繰り返す。

演劇により狂わされていく人間とその周囲を描いている物語のせいか、全編を通して、生々しさ慈しむような眼差しが混在していた舞台だったと思います。創っている人が全員演劇に関わっているので(それはそう)、本物の愛憎がこもっているというか。
演劇という苦しみ、懊悩。それでも続けることを選ばざるを得ないほどの愛しさ、魅力。「やめたい、楽になりたい」と「やめられない、ずっと続けたい」の二つの感情がぐちゃぐちゃになって決して溶け合うことなくそこにあるような舞台でした。

以下、いくつか印象に残ったポイントについて書きます。

「ババアは終わり」

すごいセリフですよね……。思い出しながら書いているので、多少、言い回しが違ったかもしれませんが。テツキの旗揚げした劇団で、長年役者をしていた女性が吐き捨てたセリフです。

リリー・フランキーさんの随筆だったと思うのですが(全然違う人だったらごめんなさい)、「女子は『私たち馬鹿なことできるのも今だけだよねー』と考える、男子は『一生馬鹿できる』と考える」という趣旨のエッセイを読んだことがあります。まさにそれです。(選ばなかったとしても)妊娠・出産という大きいイベントが人生の選択肢にある以上、外見だの年齢だのでジャッジを下されることが男性よりも多い以上、常に時限爆弾を抱えさせられている感じがします、女性は。アレは何歳まで? コレは何歳まで? と誰かに問われ続けているような。

「若い女」という価値を得させられながら、山を下りればそれを奪われ続けるような、残酷な時間の流れ。老いが怖い、価値を失うのが怖い、とより強く思うのは女性なので、だからこのセリフは「ババア」じゃないといけないのです

尚、このセリフの前に彼女は、別の役者(劇団の初期メンバーではない)から「私たちが好きでSNSやってると思ってるのか、好きで自撮り上げてると思っているのか、睡眠時間削ってリプ返したりしてる、これまで何をやってきたんだ、演技だけしてればいいと思っているのか、そうじゃないでしょ」という内容で詰め寄られるのですが、うわあよくこのセリフを書いて言わせて見せるな……と思いました(褒めてます)。

この自撮りだのも、恐らく世間的には「若い女」が求められ、「若ければ若いほどいい」と評価されているのではないかと思います。「ババアのくせに自撮りすんな」とか言われそうじゃないですか、そういう人ってネットで死ぬほど、目が腐るほど、たくさん見るじゃないですか。

また、客席に入る前に、「差し入れ札」を見ました。
(※「差し入れ札」とは……差し入れやお花が贈れない代わりに、俳優さん宛に贈れるお札のこと。コメントや名前を入れられる。希望すればロビーに飾られ、また代金の20%は俳優さんに渡されることが公表されている)
「差し入れ札」には俳優さんからのサインやお返事コメントなんかが書いてあって、恐らく、それを書いた俳優さんも自撮りとか上げてたりしていて。たくさんの「ファン」も観に来ているだろうに、このセリフかあ~……と。「私はキ上の空論さんが好きで観に来ているからいいけど、俳優さん目当てで来ていたら刺さりすぎて死んだかもしれない」と思いました。

演技しか、パフォーマンスしか売っていませんよ買っていませんよとお互いに同意している形で「俳優とファン」をやっていると思うんですけれど、じゃあ本当にそれだけの人って何割なの? と言うか。

多分、俳優という職業に限らず誰かのファンになった以上、多少なりとも人間性なり容姿なりに惹かれる部分は絶対にあると思うんです。この人の真面目なところが好きだとか、こういう顔が好きだとか。そのなかで、Twitterでリプ返をしてくれるとか、応援のDMを読んでくれるとか、自分のツイートにいいねつけてくれるとか、そういうところも込みで「好き」ということもあると思います(そしてそれが悪かと言えば、そうじゃないと私は思います。極論、何を以てしてその人に価値を見出して応援するかは、個人の自由なので)。

ただ、お互いに表では「そんなことないよね、演技(やパフォーマンス)の良さを一番に買って(売って)くれているんだよね」って言い合っているだけで。

あの状況で、それでもこの舞台に必要だから、このセリフを出すし言う覚悟に私は痺れました。

涙腺スイッチとしての死と災害

今回の舞台では、作中で、東日本大震災の描写が入ります。それから数年後、テツキが裏方スタッフの一人から、「今回の脚本で震災を書く必要はなかった」と責められます。実家が岩手だという彼女は、お客さんたちが泣いていて感動しているのはわかるけれど、簡単に綺麗にパッケージングして感動するなと思った死を軽々しく扱うなと言います。テツキは軽々しく扱っていないと否定するものの、それから脚本を書けなくなります。

いい脚本で、観客がその舞台を観て泣くことと、観客を泣かせるための脚本を書くことは違うのではないでしょうか。「泣かせること」を目的に作られたものは、もう「泣かせる装置」になってしまうと私は考えます。

誰かが亡くなるのは悲しいですし、震災も、本当にあらゆるものを奪った、決して笑えるような出来事ではないです。
ただ、それを分かりやすく「さあ泣きなさい」と示すように、ただの演出、小道具として使うのに、彼女は違和感を覚えたのだろうと感じました。それで泣いているお客さんを責めるつもりはないけれど、黙って見過ごすことも出来なかった。彼女にとっては、「泣かせるため」に扱ってはいけないものだった。だから、テツキを責めざるを得なかったのだと。

また、この舞台ではその後亜月と亜月の彼女(テツキが演劇部に入るきっかけになった、テツキの元カノでもある)が交通事故で亡くなるのですが、死を軽々しく扱ってはいけないというセリフがある舞台で死を描くの、すごいなと思いました。脚本家が「この舞台では死を軽々しく扱っていない」という自信を持っていないと、絶対に書けない展開だと思うので……。

「まあ別に大した話じゃありません」

今回の舞台の公式の紹介文でも使われていた文言。「まあ別に大した話じゃありません」。舞台上でも、何回かテツキの弟の亜月がこのセリフを口にしていました。この言葉の解釈は観客によって恐らく違って、個人の感性に委ねられていて、それがいいなあと思いました。

言葉通り「大した話じゃない」と一蹴するのであれば、「演劇に狂わされた一人の青年の話」で終わりです。劇中で「演劇の稼げなさ」も赤裸々に明かされましたが、演劇に人生を狂わされた沢山の人の中の、一人分のサンプル、で終わりです。

多分、いっぱいいるし、よくある話なんだと思います。演劇部に入ったのがきっかけでその道を本気で目指すようになって、上京して旗揚げして、夢に向かって仲間と楽しい日々を過ごして、でも思うように上手くいかなくて――と。世界が滅亡するわけでもない、明日すれ違うかもしれない人の半生を語っただけの、話です。

しかし、「大した話じゃない」と言葉通りに受け取らなくてもいいと思うのです。私は初めて公式サイトのこの文言を見たとき、「おっ、地獄変の語り手か?」と思いました。

※芥川龍之介「地獄変」の語り手については、芥川自身が以下のように述べています。

もう一つは陰の説明でそれは大殿と良秀の娘との関係を恋愛ではないと否定して行く(その実それを肯定してゆく)説明です

芥川が小島政二郎宛に送った書簡

つまり、亜月が「大した話じゃない」と否定すればするほど、その話は「大した話」になっていくのです。

これをどの点で「大した話」と捉えるかはまた無限に可能性が広がるのですが――一人の人間、特に舞台で主な語り手となる亜月の兄が壊れてしまうのだから大きな問題なのだと捉えるとか、今観劇をしている人間も無関係・無関心ではいられない、フィクションに留まらないスケール感を指しているとするとか。

この舞台は、この物語は果たして、大した話じゃなかったのかと、舞台上から透明な幕を突き破って問いかけてくるような、かなり好きな言葉でした。

留まりたいだけ

劇中劇のセリフで、「彼は踏み出しているようで踏み出していない、ただ留まりたいだけなのだ」という趣旨のフレーズがありました(うろ覚えです)。この言葉も印象に残りました。

もちろんこれはテツキの状況を表す言葉でもあり、また劇団に所属する役者たち、更にはテツキや俳優に惹かれている存在まで表すのではないかなと感じました。

ずっと劇団や芝居をやっていたい、ずっとこのままでいたいと思うような。向上心が無いわけではない。けれども、心のどこかでこの楽しい日々をずっと続けたい、この立ち位置にいたい、と思っているのではないか、と。テツキ自身も本当は、死に物狂いで演劇の道を極める気も、反対にキッパリ辞める気もなくて、ただただあそこにいたいだけというのを、どこかで求めているのではないかと感じました。

テツキと付き合う女の子や、俳優に惹かれる観客にしても同じで、どこか心地いい場所に留まることを望んでいるのではないかと。これに関しては、私が今回の観劇と同時期に「推しが辞めた」という漫画で、「他人(推し)のために生きている間は、自分の人生と向き合わなくて楽だった」という内容のシーンを読んだことも影響している気はします。

朱の人

タイトルである「朱の人」は、恐らくテツキを指しているのですが、では何故「朱の人」なのだろうと。

キ上の空論さんは、「紺屋の明後日」の観劇後に「だからこのタイトルなんだ!? すごい……」と震えたので、また今回も熟語の「朱に交われば赤くなる」を踏んでいるのかなとは思いました。

観劇中は、テツキという人物が「演劇」というものに触れて赤く染まっていった半生を意味しているのかなと思いましたが、観劇後に公式のあらすじを読み返して、そうじゃないのかなと。

それで、あともう一つ言っておきますと、これは「演劇」の話ではなくて、まずそれは違くて、まずこれは、「兄」という「人間」の話で。壊れていく「兄」と、滅んだ「僕」と。あと、兄に関わった、兄を愛したり、憎んだりした「周りの人達」の。

「朱の人」公式サイトより一部を引用

つまりテツキ自身が「朱の人」として、関わった周囲をテツキの色に、赤く染めて(=影響を及ぼして)いったのかなと思いました。

後は朱色といえばハンコのインクの色、単語だと「朱夏」が思い浮かびますけれど、それは考えすぎですかね。

余談ですが、作中のテツキの劇団の名前を決めるシーンで「劇団主の人(読み・シュノヒト)」はどうだろう、と候補が挙げられるのですが(演劇界の主役的な意味で)、「あーーここでメタフィクション的な表現きたーー好きーー」って思いました。メタフィクション的表現、大好きです。

言葉遊びと「御テツキ」

キ上の空論さんは「言葉遊びや韻踏み、擬音の羅列や呼吸の強弱、若者言葉や方言など、会話から不意に生まれる特有のリズム〈音楽的言語〉を手法に『ありそうでなさそうな日常』を綴る。」と自ら言っている通り、劇中の言葉遊びがひとつの魅力でありスパイスなのですが、今回も良かったです。

前述した「劇団主の人」の話もそうですし、序盤で亜月が「兄はセイコウ体験が多くて……」と発言した瞬間、「きた! キ上さんの言葉遊びきた!」とものすごくテンションが上がりました。どっちの漢字変換でも合っています。

また、今回は壊れるまでのテツキは「テツキ」、壊れたテツキは「御テツキ」という役名で(ただし舞台上ではどちらも「テツキ」と呼ばれる)、これも面白いなと思いました。

手を伸ばした、けれどその先が間違っていたから「御テツキ」だと私は思ったのですが、他の解釈も気になります。

ビデオを手にして流れ出す音

テツキが演劇部に入って、人生を変えるビデオを手渡されるシーンがあるのですが。そのビデオを手にした瞬間から、舞台上でギターの生演奏が始まったのが印象的でした。ここから、今ここから「テツキ」が始まるぞという期待感が高まりました。その後も、ストーリーに合わせてギターの音が効果的に使われていて、面白かったです。

おわりに

キ上の空論さんの舞台は今回も凄かったです。観に行って良かったです。今回、諸事情で感想を上げるのが遅くなってしまったので、次はもっと記憶が薄れないうちにまとめたいなと思います。

そして、「狂愛と共生の三部作」の上演、おめでとうございます。

昨年の「ピーチオンザビーチノーエスケープ」を第一弾とし、第二弾「ピーチオンザビーチノーマンズランド」は7月に、第三弾「ピーチオンザビーチノーサイド」は12月に上演とのことで、どちらもとても楽しみです。第一弾の「ノーエスケープ」がすごく刺さったので、嬉しい限りです。
「ノーサイド」の方は、タイトルからして「勝者と敗者の区別はない=誰も善でも悪でもない」ということを問うような作品になるのではと勝手に予想しています。

そして、来年は旗揚げ10周年、更に紀伊國屋ホールでの10周年記念公演の決定と、本当におめでとうございます。こちらもとても楽しみです。正直、人気になってチケット取りにくくなるのはキツい! という気持ちに満ち満ちてはいるのですが、今後とも更なるご発展をお祈りしております。

いつの間にかただのファンレターと化したところで、以上、青井いんくでした。

🫀キ上の空論#15朱の人 公式サイト⇩

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青井いんくが書いた、「キ上の空論」の舞台の感想

青井いんくが書いた、舞台等の感想まとめ

独り言コーナー

キ上の空論さんは色名がタイトルに含まれることが多いです(今回の「の人」しかり)。これについて「もしかして上演する劇場のイメージカラーと合っているのでは?」と薄々思っていたので、すこーし調べてみました。

#?幾度の群青に溺れ(仮)
→紀伊國屋ホール(紀伊國屋書店のロゴが群青っぽい)
#15の人
→本多劇場(外観に朱色っぽい色が使われている、HPのアイコンになる劇場のマークも同色)
#13脳ミソぐちゃぐちゃの、あわわわーで、褐色の汁が垂れる。
→シアタートラム(煉瓦の壁が褐色っぽい)
#11屋の明後日
→あうるすぽっと(カラー版ロゴの文字が紺色っぽい)

ここらへんはギリギリ納得できると思うのですが、
#12ピーチオンザビーチノーエスケープ・#14PINKの川でぬるい息
→シアターサンモール
で詰みました。強いて言うなら、外に置いてある看板の色がピンクっぽい……か……?

更に過去作、
#10ひびのばら
→東京劇場シアターウエスト
に至っては「看板の地の色が白だから」というぼんやりとした理由しか浮かばず。「ばら」で取るとしたら薔薇色がないといけないですし。
#9みどり色の水泡にキス
→あうるすぽっと
に関しては、またあうるすぽっと出てきた……となり詰みました。同じ劇場が、違う色名で2回出てきたらもう終わりです

もっと言うなら、次回の「ピーチオンザビーチノーマンズランド」のウエストエンドスタジオもピンク色っぽい感じではなく、「ピーチオンザビーチノーサイド」のサンモールスタジオに至ってはテーマカラーが青系という。

というわけで、結論としては「そうでもなかった」となりました。内容の無い戯言にここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

スキをしていただけると嬉しいです :)