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キ上の空論#12「ピーチ オンザ ビーチ ノーエスケープ」感想

先日、キ上の空論さんの「ピーチ オンザ ビーチ ノーエスケープ」を観劇してきました。それについての感想です。

※ネタバレを含みます。

あらすじ
青い壁に囲まれた部屋、「ビーチ」で女たちは暮らしていた。部屋の主、ミキオと重なり、交わり、笑いながら繰り返される日々。一方、出所した道成は、かつての友人・カワチとその恋人・キョーコに接近する。数奇な運命は回り、交錯し、互いに影響を及ぼし合う。やがて、女たちは「サクラコさん」を思い出した。「ビーチ」から逃げ出すために戻ってきた「サクラコさん」はどこへ向かうのか――。

全体の感想

キ上の空論さんに関しても、予約した#12「ピーチオンザビーチノーエスケープ」が中止になってとても悲しかったので、やっと観られて良かったです。

上記は私が以前書いた記事(キ上の空論#13の感想)からの引用なのですが、もう本当に待ちに待っていました。去年の5月に公演予定だったので……。それだけ待望の作品だったのですが、「待った甲斐があったなあ」という感じです。

私はR-18の作品を見るのは初めてだったのですが、グロは特に無かったので安心しました(暴力描写はありましたけれど)。血とか臓器とか苦手なので……。

一番の感想と言えば、とにかくすごいものを観てしまった、です。観終わってから苦しかったです。帰り道は「HPがゼロだけど満タン」みたいな謎の身体になっていました。あまりのインパクトに「何か」が抉られているんだけれど、「何か」は満たされているというか。

決していい気分になれる舞台ではないし、善人まみれのハッピーエンドでは絶対にないのに、また観たい、また生で体感したいと思ってしまいました。観ることができて良かったです。こんな時期で観られなかった方も多いと思うので、是非再演していただきたいです(エゴサする関係者さんに届け)。

以下、キーワード毎に感想を書き連ねていきます。

結末

軽快な音楽と「狂喜乱舞」を体現するかのようなダンスもかなりインパクトがあったのですが、個人的にはカワチの表情が焼き付いて離れませんでした。怒り、悔しさ、哀しさ全てがないまぜになった、笑っているのか泣いているのか分からない顔。あの顔は忘れられないです。主役ではないのだけれど(誰を主役とするかも難しい気がしますが)、ものすごく刺さりました。

私は「頭のねじを外した」というセリフを、「だからミキオを殺すことに決めた」という意味で捉えました。ただ、サクラコさんは最後に、いっそ愛することを決めました。

全てを超越した究極の愛、とも言えるかもしれませんが、本当はミキオを殺すことこそが「通常」の判断で、ミキオを殺さないという選択こそが「頭のねじを外」すことだったのではないかとも思えます。

だからこそ、暗転した状態で発せられるラストの一言は、本当に鬼気迫ると言うか、言葉に圧を感じました。

ミキオ

共感のしようが無いと言うか、理解しがたい役なのに、「こんな人いるわけないじゃん」という違和感なく観られました。最初はただ不器用で暴力的なだけの存在(なぜか家に女の子が沢山いるけれど)に見えたのですが、途中から別の怖さが増していきました。

おどおどした様子から激昂するまでの振れ幅もすごかったですし、破壊力、全てを巻き込んで崩壊させてしまう力みたいなものが漂っていました。

道成

怖い、ただその一言です。ミキオとは別のベクトルの怖さ。もう立ち姿から「関わってはいけない人間」で、本能的に恐怖を感じました。しかも、ミキオよりは道成の方が身近にいそうなのが余計に怖かったです。

道成が登場すると、いつ怒るんだ、いつ恐ろしいことになるんだとヒリつくような感覚がありました。終盤には「もう出てこないで」と祈るような気持ちすらありました。結構出番ありましたが……。

お芝居である以上、「そういう人間を演じている」という前提があるはずなのに、その前提を問答無用でねじ伏せるような圧巻の演技でした。

女の子たちとその正体

最初は異様な悦び方と「買ってきた」というセリフから、「彼女たちは人間型ロボットなのでは」と思っていました(それではSFになってしまう)。生理がある、という描写で「違うな」となり、同級生のサクラコさんの話で「同じ学校の子が誘拐されている?」と大混乱。サクラダヨウコの名前を書くノートが共有されている、という場面で漸く気付きました。

繋がると後はすごくて、一気に辻褄が合っていきました。カワチが「慣れちゃ駄目だよ」と言ったのも、ベッドに腰かけた女の子たちではなく、たった一人のサクラコさんに対してだった。

あと、生理がきたならチェンジ案件では? と思ったのですが(あの人数がいて全員周期が被っているとは思えないため)、元々一人なのでチェンジも出来ないという。

ミキオの「セーラー、きて」というセリフも、ずっと「来て」だと思っていたのですが本当は「着て」だったんですよね。頭から台本読みたいです。まだ気付けていない伏線がいっぱいある気がします……。

女の子たちがおしゃべりしたりじゃれあったりする様子は、すごくかわいかったです。みんなキュートでポップで個性的で、女の子だけでパジャマパーティーをしているような感じで。ミキオの愚痴を、みんなで相槌を打ちながら聞くシーンとか最高でした。

ただ、だからこそ救いがないと言うか……「そこまで壊れなくてはいけなかった」、後からその残酷性が際立ってきてぞっとしました。

柔道着とグローブ

柔道着とボクシンググローブを「ヤンチャ」に渡して、「ヤンチャ」が戸惑いながらも身に着けて誘惑するシーンが良かったです。「ヤンチャ」は拗ねたり構ってもらいたがったり、女の子たちのなかでも緩和剤的な存在で魅力的でした。全編通してシリアス一辺倒だと、どんどん精神力を削られていくので……。

ずっと見た目から「ヤンキー」だと思っていたのですが、「ヤンチャ」って役名も最上級にかわいいです。

道成とキョーコの電話

ただ電話越しに会話をしているだけ。それなのに、どんどん二人の関係性が立体的に見えてきて、印象に残りました。最初の時点で、既に道成は悪巧みをしているように見えました。素敵な友達や優しい恋人になんて、これっぽっちもなる気が無い。けれどもキョーコは気付かず、どんどん追い詰められてもう崖っぷち。

舞台だからこそ可能だった見せ方であると共に、電話の度に「それまでの二人の時間と変化した関係性」を一瞬で表現されているのに感動しました。最初は楽しく電話していたキョーコが、ほんの少しの時間でもう地獄に落とされているのが壮絶でした。

「物語」の表出

サクラコさんが自分を取り戻し、女の子みんなで言葉を切ってセリフを紡ぐシーンもインパクトがありました。みんなが思い出し、断片的に思い出して繋ぎ合わせて、重なって混ざって、本来の「サクラダヨウコの物語」が表に出てくる。サクラコさんの中の奥底から、ひとつの物語が浮かび上がってくる印象を受けました。

それまで別々の女の子として勝手に過ごしていたのが、自分たちは一人だったのだと思い出し、ばらばらだったものが統合されていく。ぐしゃぐしゃに壊された物の映像を、逆再生しているようにも見えました。

桜のはなびらと夏の陽射し

桜のはなびらを拾いあげる。「もう、ビーチに来て9回目の春だ」とつぶやく。

窓を開け、眩しい陽射しに目を細める。「もう、ビーチに来て10回目の夏だ」とつぶやく。

この場面がものすごく情緒的で、心に残っています。根本にあるテーマは暴力的なのに、なぜだかとても美しく見えました。桜というのは春を象徴する花であると同時に、サクラコさんの名前にも関係していたんですね。

思い出せなくても……

「思い出せないことはなくなったわけじゃなくて、遠くに存在しているだけ」というニュアンスのセリフも刺さりました。忘れてしまったとしても、決してその存在は消せないしなくならない。

だからこそ「存在していた」、ずっとそこにいたサクラコさんは戻ってきた。それでも最後にミキオを殺して自由になることではなく、マリア(と女の子たち)の讃美歌によって愛すことを選択するのは、幸か不幸か、10年の重みか。サクラコさんがずっと存在していたように、マリアや女の子たちもまた、確かにそこに存在していたからなのか。

安心するような、それでいてアンバランスで不安定なような、不思議なセリフだったなと思います。

濡れ場と盗撮

今回、公演の期間中に濡れ場シーンで盗撮があったという報告を見ました。そもそも濡れ場だろうがそうじゃなかろうが、「録音・録画・撮影は禁止」のアナウンスが出ている以上ダメでしょう。撮影するならOKの出ていたチャージマン研の舞台に行けば良かったのに……。

……と思うと同時に、「もしも仮に芸術的な必要性も解さずに、『濡れ場だから』という理由で盗撮をしていたとしたら、その感性はあまりにも悲しくないか?」とも思いました。「裸婦像を見てニヤつくのか? 芸術と表現、そして演じる人をなんだと思っているのか? 人間の根本的な欲求を否定するわけではないけれども、それと芸術をいっしょくたにすることに疑問を持たないのか?」と。

まあ、私が「悲しくないか?」と問うたところで、「別に悲しくないです」と答えられたら終わりなんですけれどね……。

苦しめられる女の子

首を絞められる「ロリータ」の演技は、観ていて本当に苦しかったです。もがけば暴れるなと怒鳴られ、それでも首は、喉は、気道は絞まり続ける。痛みが伝わってくるようでした。暴力を受ける他の女の子の様子も、たとえ「ありがとうございます!」と叫んでいても怖かったです。

じわじわと苦しめられていくキョーコも観るのが辛かったです。プロポーズされて喜ぶシーンで、「ちょっとアンバランスな子かな?」とは思ったのですが、過去もその後の未来も想像以上に苦しかったです。一度、この上なく幸せな状態を味わってしまった分、落差が激しすぎて耐えられないなと思いました。

そしてやっぱり、サクラコさんの誘拐から監禁に至るまでの経緯も震えました。生々しい恐怖、今ではピストルなんて持っていなかったと分かるのに、あの時は分からなかった。分からなかったから、逃げようがなかった。

暴力と精神的な恐怖に支配され、春になる頃にはもう何かが壊れていた。「セーラー」が生まれれば、後は簡単だった。この過程がこうもリアルに目の前で繰り広げられると、それまで観てきた分の重さも相まって、舞台から目を逸らさずにいるのが難しかったです。

衣装の伏線

女の子たちの衣装すら伏線だったなあと。「オーエル」についていた20%オフのシールは、「セーラー」についていた20%オフのシールとのリンク。最初の方で出てきた「最近は一周回ってセーラーだよね」といったセリフも、最初に買ってきたのが「セーラー」だったから「一周回って」いる。

あと、よく見ると中学生になる春に「セーラー」その3年後に「ブレザー」その4年後、本来なら大学卒業の22の年に「オーエル」を買ってきていたのがめっちゃ怖かったです。所謂「一般的な人」、「普通の人」と同じ服のお仕着せというのが。

異常な空間で、そこだけ外部と同じ流れを汲んでいるというのが、逆にぞっとさせられました。

事件との関連性

実際の事件を寡聞にして知らず、帰宅してからWikipediaで調べました。ウェブサイトの文章を読んでいる最中、とても苦しかったです。

スタンガンとナイフを持っていたとか、要所要所のセリフとか。執拗に手を洗う描写、ポリスがずっとやっていた運動(スクワット?)も。舞台で見た光景がフラッシュバックするようでした。

あれはこういう背景があったのか、という発見になると同時に、段々息苦しくなり、身体の具合も悪くなりました。そのため、誰でもどんどん検索しよう! とは言えないのですが、知らなければいけないことだなとも思います。

「ピーチ」

果物の「桃」以外にも、スラングで「若い女の子」「お尻」といった意味があるようです。サクラコさん(とかわいい女の子たち)を指しているのかなと思います。

ただ、サクラコさんが誘拐されてから過ごした時間(=10代前半から20代への間)も、本来は彼女にとって桃のように瑞々しく、甘く、幸せな時間になるはずだったのではないかと思いました。その甘美な時間を「ビーチ」に閉じ込められていた、とも取れるかなと思います。

「ビーチ」

開放的な海辺ではなく、あくまでも閉鎖的な「ビーチ」。広い海も空も存在しない、ただ壁と肉体だけが横たわるその場所は、壁の青では消せないほど、名前に似つかわしくない程にどす黒い空気に満ちているはずだと思いました。そしてだからこそ、「ビーチ」という名前でないといけなかったんだろうなあとも。

或いは、サクラコさんの無意識の「広いところへ逃げ出したい」という気持ちがその名を付けたのかなとも思いました。ここは狭い部屋なんかじゃない、外なんだ屋外なんだ、素敵な場所なんだという気持ちによって名付けられたのかなと。解釈や想像の範疇を超えませんが、やっぱりあの場所は「エスケープ」不可能な「ビーチ」でした。

「エスケープ」

観劇後は、「誰が逃げたのか」「どうして逃げたのか」「どうして逃げなかったのか」「逃げ道を塞いだのは誰だったのか、何だったのか」「他の逃げ道は無かったのか」ということをぐるぐる考えました。

走り回って狂い、自分を殺すように頼んだミキオは、何によってどこに追いつめられたのか。どうして逃げられなかったのか。

サクラコさんが下した愛するという決断は、「ビーチ」からの解放なのか、それとも監禁の続きなのか。

縊れたキョーコは、果たして息を引き取る時に死の恐怖を覚えていたのか、それともこれで逃げ出せると安らかな気持ちを抱いていたのか。

カワチが逃げるべきタイミングはどこだったのか。どのように逃げるべきだったのか。何故それが出来なかったのか。

道成は「親が悪かったんだ」とこぼしたが、本当に親のせいならばその道から逃れられなかったのか。

色々なことを考えてしまいます。

おわりに・自らを壊される体験

綺麗なもの、分かりやすく美しいものだけが芸術だろうか? と私は常々思っています。勿論綺麗なものも美しいものも大好きですが、目を背けたくなるほどのインパクトを与えること、人間の内面を引きずり出して提示することも、芸術文化のひとつの役割だと私は考えています。

心臓に刺さるもの、「私」を揺さぶるもの。「ピーチ オンザ ビーチ ノーエスケープ」は、私にとってそういった舞台でした。

「私」なんてあってないようなものだから、時々こうやって揺さぶられないと危ないなと改めて思いました。なあなあで「私」はこんな形だろう、「普通の日常」はこうだろうと思ってしまうと、いつかそれが石化されて、二度と動けなくなりそうな気がして。あと、そんな「自分」を壊される作品に、これから何度逢えるだろうと少し不安にもなりました。

気分的には未だに胃もたれしているのですが、それでも良い作品だったと思います。この作品を観られたことを、とても嬉しく思っています。

以上、青井いんくでした。

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(キ上の空論#14「PINKの川でぬるい息」の感想も近日公開予定です)

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