第8章

【眠れない夜】第8章 1998年 接吻

3学期は短い。この時ほど、3学期の短さを嘆いたときはなかった。2月に入ると、卒業式は目の前だ。
卒業式が来ると、それ以降結花とは学校で会えなくなってしまう。
あの日から、二人の距離は確実に近づいていた。放課後、僕と結花はときどき一緒に出かけるようになった。
けれども僕は結花に、一度も付き合おうとは言ってなかった。というか、そういうことを言わないうちに二人の仲は進展していた。
まだ冷たい風が吹く2月。月明かりの元、歩道橋の上、僕は線路を見下ろしていた。隣には結花がいた。
それは彼女と二人きりで会う、4回目の夜だった。

「もう少し早く、先輩を好きになっていればよかった。」

「なんで?」

僕は、彼女の顔を見ることができなかった。

「なんでって。もうすぐ先輩卒業するだろ。卒業したら、こうやって簡単にあえなくなるじゃん。それに、おれはそろそろ受験勉強に本腰をいれないと・・・」

ガタンゴトンと電車が歩道橋の下を通過した。その音で、僕は話すのをやめた。
電車が通り過ぎると彼女が口を開いた。

「私たちって付き合っているわけ?」

「おれは、先輩のことが好きだよ。」

「それは何回も聞いてる。でも、ちゃんと言ってくれたことないじゃん。付き合おうって。」

そうだ。僕は肝心なことが言えてなかった。お互い好きなんだから、それでいいと思っていた。

「私、卒業するまで、もう誰とも付き合わないって決めてたんだ。」

「えっ?」

僕は、左にいる彼女に顔を向けた。しかし、彼女は通り過ぎていった電車の方を見つめていた。
そんな・・・。なんだか彼女に振り回されてるような気がしてきた。

僕は、なんて言っていいかわからなかった。ただ、彼女の横顔を見つめていた。

その次の瞬間だった。彼女は突然、こっちを向くと顔を近づけてきた。僕は眼を見開いたままだった。彼女は眼を閉じていた。
そのまま、彼女の唇は、僕の唇と重なった。

僕は、心のなかでアッと思った。
僕は、遅れて眼を閉じた。眼を閉じると、全神経は唇だけに集中しているようだった。彼女の唇は柔らかくて温かかった。しばらくそのぬくもりを感じていた。

ガタンゴトンとまた電車が近づいてきた。その音に反応するように、二人は唇を離した。17歳の冬、僕ははじめてのキスをした。
いつも、彼女にリードされてばかりだった。

「私、もう子供じゃないよ。いいの?」

キスが終わった後、彼女はいった。
最初はどういう意味か僕は理解できないでいた。キスした嬉しさで心がときめいたいたからだ。
でも、彼女の申し訳なさそうな顔をみて、僕は意味を理解した。なんとなくわかっていたことだけど、そうやって言葉に出されると、ショックをうけた。
僕なんて、いま初めてキスをしたばかりなんだ。一歳しかかわらないのに、彼女がすごい年上のような気がした。

「銀河ってかわいいよね。」

はぐらかすように彼女は言った。

「なぁ、今日からはかいとって呼んでくれないかな。」

「・・・そうだね。じゃあ私のことはなんて呼んでくれるの?」

「ユカ。」

彼女は、満足そうな顔をした。
その顔に、今度は僕からキスをした。
また、電車は僕たち二人が立つ歩道橋の下を通過していく。17歳の僕はこれ以上ない幸せを感じていた。

そして、あっという間に卒業式の日は過ぎて行った。切ない春が近づいて来ていた。
なぜだろう。僕は誰にも言っていないのに、僕と結花が付き合っていることを、演劇部のみんなはいつの間にか知っていた。
女の口を伝わると、なんて早く噂は伝わるのだろうか。
しかし、問題はなかった。彼女はもう卒業してしまった。僕は演劇部を引退した身だ。彼らに迷惑がかかることはない。

僕が演劇部を引退した後、演劇部内では大きな革命が起きていた。
というのは大げさかもしれないが、今までにない配役がされたのだった。
次の芝居の日は、3月末に行う市民会館での公演だった。そして、その後の新入生歓迎公演。この芝居の出来次第で、来年度の新入生の入部の数は決まってくる。

今回の演出は細木洋介。舞台監督は阿部美香。
この二人は、付き合っている。みんな周知の事実だった。

僕が結花に夢中になっている間に、演劇部の現役のメンバーは、毎日稽古に取り組んでいた。
しかし問題があった。それは演出と舞台監督だ。
演出の細木洋介は、僕の中学校からの友人。
舞台監督の阿部美香は、前の公演の練習中僕の前で涙を流した後輩だ。何度もいうが、彼らは去年の夏ぐらいから付き合っている。

事件は、公演間近の合宿の日に起こった。

それは合宿2日目の夜、演出の細木洋介はいままでになく落ち込んでいた。
その原因は、みんな知っていた。
昼間の練習中に、彼は美香を殴ったのだ。

それには理由があった。
演劇部の部活はいつも学校の講堂でしていた。
講堂内の舞台の下手の方には、避難扉があった。そこを出ると坂になっている。そこを、演劇部員はスロープと呼んでいた。

そこでのできごとだった。。
阿部美香は、普段は明るくて元気がよい。彼女がいるとその場が明るくなるという魅力があった。
しかし、彼女の内面は感受性が強く繊細であった。そして、他人に感情移入しやすい優しい子なのだ。
講堂脇のスロープは、春の訪れを感じさせる生暖かい風が吹いていた。
その風は、美香の少し茶色がかった髪をなびかせていた。風に吹かれた彼女の髪が、今にも届きそうな距離にもう一人立っていた。
美香と一緒にいたのは、美香の彼氏の細木洋介ではなかった。今回の芝居では音響と脚本編集を担当していた鈴木亮介だった。

僕は最近の演劇部の人間関係を、よく把握していなかった。

後から聞いた話だが、その時の亮介は演劇部のあるメンバーからフラれたばかりだった。
彼はそれが原因で、やる気をなくしていた。落ち込んでいた。部活を休んだり、遅れて来ることが増えていた。
そんな彼を、美香は励ますつもりで二人で話していたようだ。美香は、舞台監督という全体をまとめる仕事についていたため、みんなの足並みを乱したくなかったのだ。
しかし、思わぬ展開になった。

「細木先輩。私ができることなら何でもしますから、元気出して下さい。」

亮介はうつむいて黙っている。ただ、春を告げる風の音だけが響く。

「先輩・・・。」

美香は、亮介に問いかける。彼女は、使命感を持って彼と話していた。

「何でもってなんだよ!?お前にはおれの気持ちがわかるわけがねぇ!おれは、部活であいつの顔を見るだけでつらいんだ。」

亮介はもちろん未練があった。別れた彼女と毎日部活で会わなければならないのは辛かった。
亮介は、美香にその気持ちを吐きだした。そして、今度黙りこむのは、美香の番だった。

「ほら、何もできねぇじゃねぇか!!」

「そんなことないです!!」

その時、演出の細木洋介は美香を探していた。彼女と打ち合わせしたいことがあったからだ。

そして、スロープに出る扉に手をかけた。

「ほんとに何でもできるのかよ!?」

亮介の感情の昂ぶりが移ったのか、美香は涙を流していた。
しかし、亮介はそれに動じることなく、ただ彼女を睨みつけている。

「はい!できます!!」

「じゃあ、これは!」

亮介は言うと同時に、強引に美香を引き寄せた。そして彼女の唇を奪った。
突然の出来事に、美香はそのまま身をゆだねてしまった。

その時だった。

講堂からスロープへ出る扉が開いた。

出てきたのは、細木洋介だった。
彼は、その瞬間眼に飛び込んできたものを、すぐに理解できなかった。
しかし、その映像だけは彼の脳に深く刻みこまれた。

細木は、しばらく動けず、ただその二人の姿を見つめていた。

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