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『「百合映画」完全ガイド』書評 革命のための複数で安全じゃない危険で転覆的な百合の語り方 そして残念ながら全てを台無しにするほんの一文(2020年7月4日追記 謝罪声明が出されました)

 ふぢのやまい氏を中核とし複数の評者によって編まれた『「百合映画」完全ガイド』(以下、本書)は1931年から2020年までの312本の映画を取り上げた評論集であり、
映画のジャンルという権力構造を百合という概念でもって撹乱する試みであり、
百合というジャンルをその複数声によって解体する試みでもある。
 これは明らかに安穏たるガイドではなく、革命のためのガイドとして作られている(ただし最後に述べるように残念ながら見逃せない最悪の一文が紛れ込んでしまっている 2020年7月4日:追記 謝罪声明が出されました)。


革命のための


 312本の映画は、怪しげなB級映画から、ブッロクバスターにポルノ映画、風格のある文芸映画、劇場版映画に、そして映画史に燦然と輝く傑作まで、あらゆるジャンル、あらゆる映画の基準を無視して寄せ集められている。
そこでは映画に与えられた権威や既存のジャンルの持つ意味は破壊され「百合的な読み」が横溢し、あらゆる映画が百合として読み解かれて行く。まさにこうした越境的な読みは、異性愛規範の中で溺れそうになりながら空気を求めて映画を貪ってきた人たちの読み方でもあり、越境的に読むことができる、越境的に読まざるを得ないということが、百合という読解の必然性を示す。

 映画史を縦横無尽に破壊するこの読みは当然の如く「百合映画」というジャンルをくり抜く。私はここまで一切説明することなく百合という言葉を使ってきたけど、だがしかし、このガイドを読んでも「百合映画」がなんであるのか?という回答は一切得られない。むしろ「百合映画」というジャンルの輪郭を内外から撫でつつ、破綻させることが戦略的に行われている。
そもそも本書は序文(ネット上で公開されている https://t.co/I7rcMxzusV?amp=1 )から百合という概念に疑問を呈する。本書の序文では「「百合」の多様性」を保留付きで受け入れつつ、「百合」に中心と周縁があり勾配があることを指摘する。その上でこの構図が「安全な解釈を確保し、危険な部分については隔離する」役割を果たしているのではないかとし、こうした硬直化から逃れる事を目指すことが宣言される。序文が二人の人間によって書かれ、私たちという主語が用いられるのも、その戦略を感じる。

 本書の内容もこの方向性に沿って行く。1作品400字程度の紹介は、単にあらすじを記したりその百合性を紹介するだけでなく、各論者の基準によるミニ評論となっている。はっきり言ってその基準は甘くなく、映画として、レズビアン表象として、百合として、多くの映画が網羅される一方で、同じ基準で厳しい評価が下されて行く。決してこれはオススメ「百合映画」ガイドではなく、これは網羅的な「百合映画」ガイドであり、その事は本書を危険なものとしている。消費を加速させる楽しみ方ガイドは安全であり愉しくそれはまた魅力的だけど、この本は「百合映画」批評を行う事に全てを賭けている。あとがきでもこの事は、編著者のふぢのやまいによって自覚的に触れられており、この本はそうした姿勢を隠さない。


複数で安全じゃない


 だが本書は複数の評者によって編まれており、ときにその基準は相克し、矛盾さえをも引き起こす。百合として女性同士の関係性があらすじを通して語られたかと思えば、あらすじは殆ど無視され細かいカットやショットの分析が念入りになされたりもする。「百合映画」という言葉に従い多くの評で百合という言葉が乱れ交う一方で、たとえば児玉美月氏による評ではつねにレズビアンの語が用いられ、百合という言葉はほとんど使用されず、その語りにおいてレズズビアン映画をめぐる歴史的な蓄積が重視される。こうした箇所だけを抜き出せば、竹村和子のような理論派のレズビアニズム論に連なる映画評論本を作り出せるだろうし、別の箇所を抜き出せば映画のカットに関する本としても成立するだろう。当然ながらそれはまた百合という文脈の中にあることであり、百合が排除してはならないものでもある。

 そのほかにも『TOPLESS』の評における「悩む若者」として提示される同性愛者像に対する危惧はこの作品に収録されている映画の多くを危うい位置に立たせるし、ハリウッド映画の隠れた同性愛描写をなぜ隠れざるを得なかったかとともに告発するドキュメンタリー映画『セルロイド・クローゼット』に対する(そこで扱われる)レズビアン映画の少なさの指摘と女性同性愛と女性友愛の差異の難しさに関する考察は、百合という概念が女性というジェンダーの抱える困難と共にある可能性を示唆する。

 あるいは将来の終わり氏の『マレフィセント』に対する評論と中村香住氏による『アナと雪の女王』に対する評論の評価の差異は強い緊張感を放っている。

 このような形で一つにまとめられない、揺れ動く評価と問題意識を積み上げる事で、本書は百合映画というものを映画史に持ち込みながら、百合というものに内在する権力性を解体して行く。それらは一つ一つが応答されうる問題意識を持ちながら、一つ一つが一貫されない事で、権力化に逆らい、権力を指摘し、また読書に考えることを迫る。このガイドが際立つのは、それが百合の言説をめぐる空間の中に賭けられている点である。わずかでも気を抜けば、このような歴史は崩壊し、百合はレズビアニズムを切り捨て、周縁に目を向けず安全な地帯に潜んでしまう。創作としてではなく言説としてこのような空間を作ることを目論んだこの複数性こそが、この本の革命への態度を示唆する。

 その意味において本作はポリフォニックなセクシュアリティを描いた作品であり、李琴峰の『ポラリスが降り注ぐ夜』王谷晶の『完璧じゃないあたしたち』といったポリフォニックなマイノリティを描いた小説と並べて読まれるべき本でもある。なぜならどの作品も、ある存在をこの連続体の中から排除してはならないという決意があり、そのために複数な声によって成り立つ現代的な作品だからだ。ラベルの暴力性と、ラベルの必要性と、生のリアルという三つの間でそれは揺れ動く。


危険で転覆的な百合の語り方

 本を最後まで読み終えて、私が素朴に感じるのは百合というものが、非異性愛的な可能性を持つ「女性」たちの可能性のことなのかもしれない、という感想だったりする。あるいは異性愛を転覆させる可能性を持つ全ての「女性」の物語。

 私たちが百合を語る時、前提としてそこではその関係が異性愛ではないことが暗黙的に示される。その意味において最も安全な百合の語り方(作り方ではない)とは異性愛を温存すること、になる。今あるような異性愛を暗黙の前提として存在させながら無視する、それはある意味で安全であり今ある百合を保存する、百合の「語り方」だ。私たちの世界がどれほど異性愛に揉まれ苦しいものだろうと、世界と社会と強制異性愛を無視して百合を語る。無論そこではどれほど百合作品に同性愛者がいようとも、同性愛は語りの中で不可視化される。

 そのような作品や語りが、現実に倦み疲れた当事者を含め多くの人の救いになる事は本当に痛いほどわかる。特に作品という形において、異性愛を排しつつ百合を痛みと共に戦略的に作り上げるような作品はほとんどない。百合作品におけるリアルな痛みは強制異性愛社会と共にある。
しかしにも関わらず、あるいはだからこそ、百合の語りにおいて異性愛制度への批判は奇妙なほどに遠慮され、百合は静的に落ち着きこの世界は温存される。

 本書はそのような百合の在り方を攪拌し、そのために異性愛世界を静かに転覆させる、危険で魅惑的な本なのだ。



そして残念ながら全てを台無しにするほんの一文、トランス差別、ミスジェンダリング、2020年7月4日 追記 改訂されるそうです、


2020年7月4日:追記 執筆者一同/編集担当・石川詩悠として声明が出されました。
https://ji-sedai.jp/editor/blog/yurimoviesguide_statement.html
今後重版がかかれば修正される、ということです。
きちんと受け止めていただけたようでほんとうによかったです……。今後こういうことがなくなっていくといいですが。出版界など全体で意識がされるようになることを願います。

 さて最後になるけど、この本の最悪の点を語らないとフェアではない。この本は批判に応えるものだと信じているから。
 それは映画『バウンド』の項目のことだ。

 『バウンド』は今更私が解説することもない、とても重要な作品だ。ウォシャウスキーズは2015年にトランスレズビアンを含む様々なマイノリティが団結するSFドラマ『Sense8』をNetflixで公開し高い評価を得るが、『バウンド』はそんな監督のデビュー作でありその先駆けとなった作品でもある。なによりクライムサスペンスというジャンル映画に言い訳なしでリアルなレズビアンを持ち込んだのも画期的だったし、セックスシーンの監修にレズビアンに関する著作も多数あるフェミニストのスージー・ブライトを起用したような点などは今なお他に類を見ない試みであり、現在も多くのレズビアンから愛されている。

 しかし、本書に収録された牛久俊介氏によるウォシャウスキーズ監督によるこの作品に対する評の中に「ウォシャウスキー「元」兄弟による秀作」という一文がある。この後増刷がかかるべきなら、この一文は絶対に改訂されるべきだと私は考える。

 引用するのも苦しいあまりにも最悪なこのトランス差別的な言説。この一文は決定的にトランスの自己決定権を侮蔑し、土足で踏みにじるものだ。ウォシャウスキー両監督は現在は姉妹として暮らしている。2010年から姉のラナはカミングアウトをし、妹のリリィが2015年にカミングアウトした(以降リリィはしばらく映画から遠ざかっている)。もしもこの一文が、彼女たちが性的マイノリティとして当事者であることを示したいがための一文であれば単にそう書くべきだ。このように「元」などと強調することは良い効果をもたらなさい。それはミスジェンダリングと呼ばれる行為に類するものであり、攻撃的だと私は考える。

 最も有名な映画データベースサイトIMDbでは『バウンド』の監督はラナ・ウォシャウスキーならびにリリィ・ウォシャウスキーとなっている(日本Amazonプライムではラナのみ現在の名前で米国Amazonプライムでは両名とも現在の名前。GooglePlayではウォシャウスキー姉弟。BDでは米国版日本版ともに兄弟表記。また2010年まではウォシャウスキーズ・ブラザーズ、それ以降はザ・ウォシャウスキーズとしてクレジットされることが多い)。本書では各映画に監督名の記載が統一フォーマットとしてあるが『バウンド』の記載は両監督とも変名前のものとなっている。仮に検索性や歴史性による判断からこのような措置にしたとしても、トランス差別のような文言は全く必要ではない。この一文によってこの本はトランスを排除し悪い意味で安全ではない空間を作ってしまっている。

 前述したIMDbではトランスジェンダーへの配慮の一環として、記名ポリシーが変更されている( https://deadline.com/2019/08/imdb-birth-name-policy-lgbtq-transgender-1202666936/amp/?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter&__twitter_impression=true )。 トランスジェンダーにとって自身の経歴や名前をコントロールすることは自己の性の決定権を持つために重要なことの一つだ。先述した『ポラリス』でもこの事は明瞭に描かれている。それに対し「元」というような表記は性別の動かし難さを強調し、常に他者から「元」という烙印と共に生きざるを得ないこの世界の苦しさをトランスに対して発信する。

 あるいはウォシャウスキー姉妹が姉妹である事を強調し、記名状の都合に対して釈明をつけたかったのかもしれないけど、これでは全くの逆効果だ。
そもそもリリィウォシャウスキーがカムアウトしたのも、彼女の意思によるものではなかった。彼女は性別適合手術を受けてから、知人や家族、仕事仲間にはそれを打ち明け少しずつ女性としての暮らしをはじめいてたが、次第に記者やタブロイド紙に狙われ、デイリーメールに目をつけられるに至り、前年に同紙による悪質なアウティング記事により自殺に追い込まれたトランス女性のことが念頭にあり、自ら声明を出すに至ったのだった。
 彼女はトランスであることは「公然と敵対的である世界」で生きることであり、そのような世界とは男女を二分しそのなかで人が判断される「二分法(バイナリー)な世界」のことだと語る(http://www.windycitymediagroup.com/lgbt/Second-Wachowski-filmmaker-sibling-comes-out-as-trans-/54509.html)。

 ラナ・ウォシャウスキーもまたトランスの生きづらさを代弁している。2012年ヒューマンライツキャンペーンでのスピーチで、初対面の人から「彼」と呼ばれたり「ウォシャウスキー兄弟」となざされたりあるいは「ラーーー」と名前を曖昧にぼかされるような攻撃的なな態度を受けることがあると語っている。「awkward bridge between identities, unable or perhaps unwilling to see me as I am, but only for the things I do.」と彼女は言う。
「元」という呼び方の悪さはこれと通底する、同じ行為だ。彼女たちの考えと経験を踏みにじってしまう(https://www.hollywoodreporter.com/news/lana-wachowskis-hrc-visibility-award-382177)。
 時にトランスという異なり、周縁的な経験を語るには、トランスというラベルを付けて語らざるを得ない。しかしそれには相応の敬意と覚悟が必要であり、議論を踏まえた慎重な語り方が必要だと思う。(両名による声明とスピーチはとても重要なので関心がある方は一読をお勧めします。)この文章は批評の正しさとか自覚無自覚そういう問題ではなく、ただただ差別の問題である。

 いずれにせよこのような一文が紛れ込んでしまった事はこの本の持つ価値全てを毀損し破壊する。周縁というテーマがあったが、トランスはこのように周縁化されてしまう。本当に本当に残念なことだが、私はこの本をもう楽しくは読めない。この一文は煌びやかな宝石箱に潜んだ矮小な毒であり、私は箱に手を入れてガチャガチャしていたらこの毒に当たってしまった。どう考えてもこの毒に批評性はないし、大した意味もない。私はこの箱をこれ以上開くのを躊躇われるし、人に勧めるのも難しい。少なくとも人にお勧めするときはここにあるような内容を話す(そうしないと意図せずに相手を殺してしまうかもしれない)。

 大変長くなってしまったし書くのも調べるものしんどかったけど、それでもここまで長く書いたのは、性別を問わずトランスをめぐる問題が今なお無視されがちであり、かつ多くのトランスが傷ついている現状があるからだ。私たちはトランスの経験と在り方に正しい敬意を払わなければならない。しかしそのための基本姿勢は常に忘れられてしまう。残念ながらこの本のみならず、トランスに対するこうした反応はまま見られる。TVはもちろんとして責任あるメディアや評論でも、この傾向は変わらない。だから私はいちいちそのすべてに反論を加えたりはしない。せいぜいTwitterで短くつぶやくくらいだ。でも、こうした私が好きな本、好きな文脈、私が人生をかけるモノの中で出てきたときは、だからこそ全精力を注いで書かざるを得ない。私はその文脈の中で『気づいてしまった人間』として、その文脈が人を排除した語りにならないようにするために努力する責任があるからだ。それはまた相手が応答してくれると信じているからでもある。


2020年7月4日:追記
冒頭にも追記しましたが声明が出されました。応答がありよかったです。今後重版され、修正されればよいですね。。。
https://ji-sedai.jp/editor/blog/yurimoviesguide_statement.html


おまけ、あるいは私の「百合映画」ガイド


リリーのすべて
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 世界で初めて性別適合手術を受けたリリー・エルベと、その結婚相手ゲルダ・ヴィグナーを描いた映画。映画ではリリーとゲルダの関係は異性愛的なものとして描かれ、リリーの移行後はリリーに男性のパートナーができ、二人の関係は支え合う女同士の友情として描かれる。カメラはそれを美しく切り取る。しかし史実のゲルダが幾つものレズビアンポルノグラフィを描いていたこと思えば、私たちはこの二人の関係がレズビアン的なものであった可能性を想像することができる。おかしなことに映画ではこうした部分は抹消されているけど、百合的なレンズをはめてみれば「抹消されたレズビアニズム」をきっとここに読み取ることができるはず。2015年に至っても、レズビアンは文芸映画の中からさえ消されてしまうのだ。

監督:トム・フーパー/2015年/イギリス+アメリカ+ドイツ/119分

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