失敗する「女と女」 『女人吉屋信子』が描き出す連続しない同性愛?


『女人 吉屋信子』は、今のところ、吉屋信子のレズビアンとして、そしてフェミニストとしての姿を伝えるほとんど唯一の書籍として知られてる。吉屋の長年のパートナーだった門馬千代から託された、本人の日記や手紙を使って作られたこの本は、吉屋信子の人生を生々しく伝え、吉屋が持っていた女同士の絆を信じようとするレズビアンでフェミニストな姿を伝える……という収まりがいい本では決してない。私はむしろ初めて読んだときに結構な絶望を感じた。吉屋の生き方に、ではなくその語られ方に。いまはそうでもないのだけど。

この本は著者の吉武輝子の思想と主観が剥き出しになっているし、むしろ本はそうした一貫性を偽装しようとしすぎているあまりに、それに失敗し、レズビアン-フェミニズム-シスターフッド-百合といった女と女をめぐる諸概念の断絶と現実をまざまざと見せつけてくる。

『女人 吉屋信子』を書いた吉武輝子は女性解放運動の書き手として知られていて、国会選挙にも出馬したことがある。というかこの国会進出とその失敗が、『女人 吉屋信子』の成立に深く関わっていることを本人はこの本の中で語っている。

吉武輝子は「女は女とやさしくやりあわなくてはね」と信子に言われ感激し
「長年にわたって女を信じ、支えられ」けど選挙活動で「女にたいする失望感」「自己嫌悪」を受けた。女と女の関係はまやかしなのか?苦悩した吉武は、久方ぶりに再読した『花物語』に女性同士の連帯を見出し、救われ、吉屋の伝記を書くことを決意する。

私はそれを百合によってシスターフッドなものに救われた私の姿と重ねちゃう(こんな矮小な人間に重なられても吉武氏は困るだろうけども)。

でもそんな彼女は徹頭徹尾同性間の性欲を否定し続ける。あからさまに性的な暗示のある吉屋の手紙を載せながら、直接会った吉屋とパートナの千代の姿を「エロス」を感じるとさえ描写しながら、それを絶対に否定する。

吉武による本自体が抱える、この矛盾と強い女性間の感情への想いを通してしか私たちがレズビアンとしての吉屋信子に触れられないという不可思議さ。同性愛をフェミニズム的視点から称揚しつつ、性愛を一切否定する吉武の姿勢は、とっても70-80年代的なもの、かもしれない。

吉武の本には、80年代のフェミニズムが抱えるシスターフッドへの希求と、そこから生まれたレズビアンという生身への憧れと間違ったホモフォビックでさえある恐れがある。かつて、フェミニストの中にはレズビアンになることが正しいと信じた人たちがいたし、彼女たちは女性同士の性は異性愛的であってはならないと信じていた。そこから更に同性間の愛情を非肉体的な恋愛として脱現実化して、理想化することは──それはいいレズビアンと悪いレズビアンを弁別し差別の言い訳に使う権力となんら変わらない過ち──は吉武たちにとって必要だった、のだろう。と思う。私はその姿勢に傷ついたしうんざりしたけど(なぜ「うんざり」なのかというのも大事)。

だけど大正昭和をセミオープンなレズビアンとしていきた吉屋信子の姿もまた複雑だったりする。
私生活における姿と作品の矛盾がそこにあるし、さらには吉屋自身の女性の連帯への憧れと、作品の中のある種の女性に対する嫌悪という矛盾が更にある。その奥にはまた、吉屋のフェミニズムと、ある種の横暴(?)な男性的振る舞いの矛盾がある。それはきっと、吉屋のそうした姿を記録した吉武の思想とは縁遠いものだったであろうことも窺える。

吉武は吉屋のこうした点を門馬のインタビューで出てきた「やっぱり女同士(中略)相手の自我を踏みにじるなんてことは、決して決してありませんでしたもの」という言葉を引いてまとめるけど、レズビアンカルチャーを知る私にはそんな簡単に、理想の恋愛関係としてまとめてしまっていいものとも思えない(もっとも、ここでは私には当時の日本のレズビアンカルチャーがわからないという問題があるのだけども)。

吉武は、吉屋の同性愛を通して、フェミニズムの女性同士の連帯のありようの理想を語ろうとし、それによって吉屋に連帯しようとする。
だが、そうすればそうするほど、そこではぬぐいきれない断絶が現れ、吉武がその断絶に躊躇わず無視するほどに、断絶は危ういものになっていく。吉武が吉屋信子の同性愛を良いものとして称賛するほどに、その裏返しの悪い同性愛を語ろうとするようでもある。

百合、シスターフッド、レズビアン、恋愛、それらが一体となって加速しつつある今、何度も立ち止まり重なりつつ重ならない歴史と名前を持つことの意味を考える必要があるのではないか?状況は違うけれどこんな過ちを繰り返してはいけない。

『女人 吉屋信子』で吉武も、吉屋も、それでもなお、同性愛という言葉を選びつつづけたことは、私に勇気を与えてくれる。それだけではない。吉屋の女性との交流、吉屋のレズビアンとしての生き方、吉屋の男性との向き合い方、それはどれも勇気をくれる。吉武も同じだっただろう。

少なくとも、彼女たちはその政治性と社会性を忘れなかったし、忘れなかったからこそ女性にも男性にも絶望しかけたのだ、と私は思う。

百合は好きだ。シスターフッドも好きで、レズビアンも好きだし、恋愛も好き。だからこそわたしはそこの断絶をもっと語りたい。その違いと違うとされてきた理由と歴史を語りたい。連続しない不連続さに分けられてきた歴史をきちんと語りたい。そしてその中での発言に絶望したい。『青鞜』の中の同性愛に対する不穏さを忘れて青鞜を語りたくない。かつてシスターフッドがトランスを踏みつけたことを忘れたくないし、アドリエンヌリッチがブッチに向けた姿勢を忘れたくない。越境なんて簡単にできないことをずっと考えいし、引き受けざるを得ないことを考えたい。

『女人 吉屋信子』は私を勇気づけ、同時に私にその失敗を思い出させる。でもその失敗と断絶こそ、私が語りたい女と女の希望なんだと、そう言いたい。

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