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私にとってのnote、現在

 気ままな日記を書くということが時に時間の無駄に思えることがたまにある。今こんなことやってる場合か、と。もっと準備すべきこと、身につけたい習慣、取り組みたい活動が日々見つかっていく。自分の時間というのは限られていることを知る。

 自分の時間リソースを何に使うかって案外大事だ。アルバイトは時間を売るなんてよく言われる。アルバイトしていたその時間で何ができたか、将来のための勉強ができたかもしれないって言う人がいるかもしれない。自分に投資するのが一番って言うかもしれない。でもそれが将来のどこで役に立つかなんて、少し先に迫った試験とかでもない限り、具体的に説明するのは難しいし自覚もしないだろう。結局のところ目の前の金の方が必要なことが多かったり、それで良かったりする。大体、常に「この時間は自己投資、これは違う」なんて考えていたらつまらない。

 今は、noteに使う時間のことは無駄だとは考えていない。しっかり考えて書くという時間であれば、日記でも、散文でも、何か少し自分の栄養になっている気がする。

 1日単位の出来事や感じたことだけではほんの少しにしか感じないかもしれない。でも1週間、1ヶ月と積み重なっていく、自分の中では覚えきれないほどの思考が溜まっていくとそれが大きな何か自分を構成しているものの何か一粒になって文章に現れる気がする。

 一人で成し遂げられることは小さくても誰かと集まってやることはとても大きなものになりうるように。集積こそが知恵。

 なるべく考えて考えて、抽象化したものを文章にしたいと思った。

 でもそれはやはり、すぐな方がよいと思う。
何日か経っても忘れずにいられることというのは、自分の脳内で覚えていられたことなのだからわざわざ書き留める必要がなくなってくる。何日か経って思い出したことを書き留めていると、なんで今書いているんだろう、、、という気持ちになってきてしまう。サボっているとだんだん書き留めるほどでもないどうでもいいことが残っていく。忘れてしまいそうなことほど残しておく必要があるのだと思った。

 そして情報にも賞味期限があって、新鮮さに価値がある情報と熟成された時に価値を持つ情報の両方があるように感じる。この間、高校の時に読んだ「思考の整理学」を久しぶりに図書館でぱらぱらと読み返したら、似たようなことが書いてあった。私の解釈ですが。なんだかメモの取り方みたいなの、面白かったから実践したいな。いまどきはPCのメモで実践できないだろうか。

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