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シン・エヴァを見終わってもネタバレに配慮して気軽に吐き出せない言葉のお墓

ネタバレができない間の心のはけ口。以下は別に誰向けというより独り言だけれど、ネタバレ配慮なしのものなので未鑑賞でたどり着いてしまった人は御覧にならないように。

これはいくつかの小題に分類した、反射的な文面集です。考察とか整理されたレポートではありません。ただのメモ書きだと思ってもらって構いません。

大体前から順に重要度が高い感じで並べています。一応は話の流れがあるので一部当てはまらないものもあります。



▼すべてのエヴァンゲリオン
人類の補完、生命が一つの存在になることに対し個の存在を肯定する選択という点ではこれまでの作品と同じではある。
漫画版の描写に重なる点も少なからずみられた。ゲンドウの告白以降はニュアンスの違いこそあれ大筋は同じ。
TVシリーズのラストシーンの発展版ととらえることもできる。
他の媒体含むいくつもの結末があり、本作がその終着点ととらえたとき、それが必ずしも他のシナリオがバッドエンドであったためにループしているということとイコール、というわけではなさそう。良し悪しとは別に一つのゴールに到達させたという理解で十分では。厳密にそれぞれのエンドから次のループへのつなぎを考えると、そのつなぎのためのシナリオが必要になってキリがないので、シナリオ上のつながりというよりメタ的な処置ととらえた方が早そう。
(そこに視点を置くと、新劇シリーズと別により上位概念でのループしている全体シナリオというレイヤーが必要になる。エンドレスエイト的な。それよりは新劇自体はターンA的な位置づけで見た方が良い)

▼相田ケンスケという存在
個人的な解釈が多分に含まれるが、旧作の時点からポイントポイントで重要な役割をこなすキャラクターだととらえていた。その代表例がキャンプのシーンであることは言うまでもないが、新劇・破などでも要所で鋭さを見せる表現があった。もともと視聴者に対するヒント役みたいな部分があったのではないかとも思う。出番は少なくなっていたけど。
そして漫画版のラストシーンでも印象的な役割を負っていた。「なんでケンケン」という声も少なくないようだが、個人的には上手いところを突いたと絶賛である。できれば一回くらい「いやーんな感じ」を言って欲しかったけど。
今にして思えば、そこに行きついても良いようなケンスケとアスカの相性を思わせる布石はあった。制作陣が意図して配していたのか、ケンスケたち自身が制作陣を動かしたのかは不明だが。
そして作品外の話ではあるが、ケンスケ役の岩永哲哉氏のシンエヴァ劇場パンフレットでのインタビューが非常に正鵠を得ている。この視点がケンスケなんだ、とスッと腑に落ちていった。

▼クラスメイトの存在
トウジは新劇場版を通じて、3号機降板によって主要人物から一段降りるかたちになってしまったことは否めない。漫画版ではフォースチルドレンとしてカラーイラストのパイロット集合にはしっかりカウントされていて、死亡という結末を迎える一方で戦死した4番目の戦士の立場をしっかりと尊重されていた。
グッズ展開でもおなじみの5人組(劇中の位置づけからすると彼らがセットなのは違和感があるが…とくにカヲル)に割って入ることはできなくなったが、結果として5体満足で妻子も持つというある意味では一番救われる描写になった。
旧作ではアスカの等身大の姿を描くために大活躍だったヒカリは新劇シリーズでは限りなくモブに近くなっていたが、シンではまさかの大活躍。出番自体はさほど多いわけではないが、クライマックスに絡む「おまじない」のキーワード提示を担った。この配役は極めてクローズな少年少女によるセカイ系の様相を呈していたQに鑑みると、非常に意味のあるものだと思われる。
彼ら3人が場にいる・いないというのはそのまま現実的な日常と非日常と、シチュエーションの印象が大きく変わる。Qの舞台は終始全貌の見えない一種SFファンタジー的な異世界であったがために視聴者の消化不良になる部分が残り続けた。それがシンでのカタルシスにつながるわけだが、そこまで計算づくであったかは正直わからない。
成長した彼らの存在はエヴァにおけるキーの一つ「14歳」「大人」をこれ以上なく表現してくれたし、その上で帰る場所や人とのつながり、そのあたたかさをはっきりと提示した。(それを見せつけられるほど、後半でそれをズタズタにする気じゃないだろうな、という疑いの欠片が心に生まれるのは、今までのエヴァ制作陣のせいだ)
実は今回観劇前の温度は少し低めだった。主に昨今のマーケティングのせいだが、5人の少年少女と親たちのクローズドなセカイ系に終始するんじゃないかと疑っていたからだ。
結果それが正反対というほど世界が開かれたということこそが、エヴァンゲリオンシリーズが抱え続けたテーゼに対する答えだったわけだ。
クラスメイト達、市井の人々、そして生き延びた人々の(トウジやミサトの)子供たち、彼らの生を描いたことの意味はそれくらい比重の高いことだったと思う。
観劇後一発目のTwitter投稿は「願いは神に届いていた」だった。それはこのことを指している。

▼裏切らなくていいということ
そういう意味では、シンエヴァが視聴者を裏切ったことがあるとすれば、「視聴者が思う『こうだったらいいのにな』を意図して外すことをしなかった」ということかもしれない。
ミサトの本心も、ゲンドウの告白も、それだけを切り出してみれば意外性は何もなく、多くの人がきっとそうだろうと思っていた内容だろう。それをボカしもせずそのまま正直に言語化したこと、これは一つのケジメだったのかもしれない。これまでずっとこういうことについては「行間から読み取ってください」でやってきたから。
主要メンバー以外誰もいない世界だけで世界を完結させる選択を取らなかった以上、異変後の世界に生きる人々を描くことは必然であったし、そうなればトウジたちはどうなった?ということに触れないわけにもいかない。そして変にシビアに誰かを死なせても、モヤモヤが残るだけだし、シンジが希望の未来に向かって完結、となりようがない。Qからさらに残酷なだけの世界に進むのは更なる悲劇のループを続ける選択であるから、ある意味では逃げの作劇になってしまう。
そこで正統派(というと乱暴だが)な希望の道を歩ませるのは、もしかしたらかつての庵野監督たちには面白くないものだったのかもしれない。しかし今回はやった。着地点は人類補完計画に対する選択、そして未来へ、ではあってもこれまでになく前向きなやり直しであった。
裏切ると思われていた人が裏切らないという裏切りをした。それが決着をつけるということなのだろう。

▼昭和への憧憬
作中、雰囲気に昭和テイストが感じられたという人もいるのではないだろうか。過度のオーバーテクノロジーにまみれた世界観とコントラストを付ける演出だったのか?
個人的には、どこかノスタルジーを込めて制作されていたのではないかという気がしている。人のかたち、人と人とのつながりとへだたり、人はどこから来てどこへ行くのか、そういった永遠のテーマを取り扱っているだけに、意図的に郷愁を煽ったのかもしれない。それはQで描いた世界の無機質さと対比になることは噛み合っているし。
便利さ、合理性で割り切れないものを描いたと仮定すると、アヤナミレイと村人のふれあいはその象徴的な描写と受け取れる。
以上は主に村パートの話だが、昭和を感じたというのはそこだけの話ではなくて、演出のケレン味の出し方や多様なオマージュとか、または特撮の経験が反映されていそうな画作り音作り…も含めてのこと。
あるいは逆にそれを感じたことで、昭和世代の価値観への回帰とか押し付けといった反発を感じる人もいるのかもしれない。でもこれは意味のあることだと思う。
ここから個々が、今風に言えば「アップデート」して生きていけば良い訳で、良いではないですか、登場人物たちの救いのためにおっちゃんおばちゃんたち先人が彼らの重ねてきた価値観で手を差し伸べたって。そういう繰り返しで人類は前に進んで行く、それが人類の営みなのだと。

▼完結とは
いろいろ言ってはみたものの、エピローグが欲しいという気持ちも残っている。結局ラストシーンがどんな世界上なのかははっきりとは示されなかったので、論争が起きたら微妙だな…という気持ちがある。
問題は背景に登場したレイとカヲルの存在に他ならない。彼らが彼らでない誰かとして転生した存在だと位置づけると、裏宇宙帰還後いくばくか時を経た世界、と言い切りにくくなる。(=アスカや離脱したヴィレメンバーの世界とシンジ・マリの世界との分岐の可能性が残る)
その前のそれぞれが扉を開けて歩みだす描写は、半分メタ的に(TVシリーズのラストとも重ねて)一つ一つ決着をつけるという意味合い、および「個」の肯定というシンジの選んだ補完として受け止めればよいと思うが、要するに帰還した世界であれば「僕たち人間になったよシンジくん」なのかレイとカヲルだけ「君は、どこかで会ったことがあるかい?」状態なのか。
そうでなく真っ新な生まれ変わった世界なのか。だとしたら息子を想いながら特攻したミサトやケンスケによろしくは何だったのか?になる…
そういう意味では、海辺でのマリとの合流は帰還してエヴァが消滅する世界改変が連続した世界の中で行われた描写とみた方がしっくりくるか。
シンジ自体は本当は28歳というわけではないから、レイとカヲルはアダムとリリスがそこタイミング転生して、それが14歳くらいの年頃になるだけの年月を経て結構復興したのがあの宇部新川、なのだろうか。マリの年齢の謎はあるけど…
そうなるとアスカ含めたクラスメイトたちは40過ぎになっている頃(最後のホームにいたっけ?)。この辺の舞台設定はもう別に皆さんのご想像にお任せする必要はないので、制作陣は聞かれたら明かしてほしいところだ。
結局ラストシーンが新たな謎になっちゃったじゃん!という意味で、ちょっとだけ完結しきってない感が残ってしまった。まあエヴァシリーズを一つの大河としてみたときに、ここではシンジの声変わりとチョーカーが外れるということで動き出した「時」を象徴するのが目的だろうから、そこまで比重が高い要素ではないかもしれないけど…ドラマ的には、謎になってしまった。

▼声変わりは象徴
ずっと中性的な14歳であったシンジ、それがQでも大きな意味を持っていたわけだけど、声変わりにその終わりを告げる意味があったのは想像に難くない。
これに対しては声が変わってもシンジ=緒方恵美氏であってほしいという意見も散見されるが、「緒方さん、ありがとう、お疲れさま」のニュアンスも少なからずあったのではないかという気がしている。もちろん今後一切ないよ、というネガな宣言ではなくて、真のクランクアップ、という節目を作ったのではないだろうか。
それもまた一つのケジメなのだと思う。
神木隆之介氏の起用はどうなのだろう、これはもう個人的な推測にしかならないけど、なまじアニメ声優にすると悪い意味でキャラ立ちしちゃうから、いい意味で色のつかない男声、という役割じゃないかと思う。だからって謎の青年連れてきたりキャストに名前出さなかったりしたら無意味な考察を喚起しそうだし。神木氏ならざわめきはあってもそこが本筋そっちのけで議論の的になるほど持って行きはしないのではないか。

▼包含されないエヴァンゲリオン
すべてとはいっても基本的にはTVシリーズ、旧劇場版、漫画版、新劇場版の集約で、Second impressionとか鋼鉄のガールフレンド、ANIMA、エヴァ2などは特に触れてないのかな、という印象。まあ下敷きにした外伝的作品だと思うからそれでいいと思いつつ、山岸や霧島は含めてあげても良かったかもしれない。それにファンサービス以上の意味がどれほどあるかというと難しいけれど。

▼庵野の私アニメという見方
個人的には好きではないし、共感しにくい。作品にパーソナリティが反映されるのはむしろ当然のことであるが、キャラクターと作家を重ね合わせてそれが答えだ、というのは無意味な行為だと思う。
そうとしか見えないというなら、それは庵野監督個人の存在を過大に意識しすぎているのではないか。監督のバリューが肥大化した作品すべてに言えることではあるが。
庵野についての事前インプットがなくてもちゃんと成立するし、知っていることで見えてくるものは作品としては特にない。
あるとすればそれは作品鑑賞視点ではなく、大衆文化論的見地である。この作品がどのようにして生まれたとか、作品の背景の話と作品そのものの干渉とは違っていて、鑑賞を通じて背景をあれこれ想像するのは、もちろん好きでやるのは自由だが、本来の消費目的とは異なる。「羅生門」を読んだ感想と「羅生門」の近代文学史や芥川龍之介の人物氏における資料としてしての分析は、ジャンルが違う。それが「感想」や「評価」という一括りの中で共存している。
別に問題があるというわけではないし、この記事も十分メタ視点の読み解きに言及しているけど、それに引っ張られて変な争いになりがちなのが、好ましくない。例えばエンタメの出来不出来を無視して所詮庵野の独りよがりと切って捨てるとか、「オタクと女」の当てつけみたいな解釈とか…着想やプロセスにそういったことが関わっていた可能性はあっても、作中のドラマはそれとは別にシナリオとして作られているわけだから。
あえて監督の心理を拾うとしたら、パンフレットにもあったがエンターテイメントとして面白さを考えたということ。裏切らなかったという裏切りがあったというのは、そのためもあったのかな、とは思った。

▼心残りもある
以上のように高く評価しているし、とうとう完結したと言える作品になったと思う。だからこれは不満ではなくて作中の悲劇の要素でしかないけれど、あえて心残りとして言うならば、リセットではないという前提に立つとミサト・冬月はその後の世界にはたどり着けなかった、という事実だ。
元々そういう役どころだった加持に対してそう思わないのも申し訳ない気持ちはあるが、最後に往年の表情を取り戻したとはいえ、ミサトの持ち前の気さくさは破の半ば以降失われたままだった。最後に軽口の一つでも、と思いもしたが、死にゆく人にこっちの心残りのためにそんなことを言うのもひどい話だ。
メタ的に言えば、ゲンドウがシンジに対しそうであったように、心をしまい込んで母親としての自分を追い出した存在と化したミサト(少々皮肉な対関係である)。最後の最後で少しの救いはあるが、リョウジJr.はちょっと気の毒な…
冬月に至っては本当にそれで満足なのかと問いたい。思えば最初から最後まで一人達観していて、旧劇で見せた心の闇をも今回は飲み込んだままいってしまった。捉えようによってはゲンドウより壊れている。ただ、今作中やたら「さすが冬月副指令(教授)」というセリフが連呼された。そういう意味では大活躍ではあった。

▼アフターエヴァンゲリオン
エヴァのなくなった世界というものがゼーレや二つの月から人類が独立(決別)した世界だとして、それは我々の生きる世界ですよという旧劇でも見られた結論であるとすれば、その後の世界は以後描かれることはないのだろう。
でもエピローグが欲しいと上述したように、本心では大したドラマがなくてもいいから、その世界の有様を教えてよという気持ちは否めない。
人の姿を取り戻したと思ったらエッフェル塔がへし折れていたパリジャンたちはどうしたのだろうか。
使命を終えたヴィレの生き残りはどんな日常を取り戻すのだろうか。

▼いざ二回目へ
ずっと画面を全体視できるわけもないので、見落としている部分はまあ多々あるでしょう。以上の記述も事実誤認が含まれている可能性は大いにある。
ということを踏まえて、二度目の劇場に足を運んでみようかと思っている。というか正直それぞれの救い、それぞれの明日を手にした登場人物たちに対し、自分がまだ檻の中に囚われている。失恋してしばらくどうやっても手も足も出ないのと同じで、もうこんなの慣らすしかない。ただの未練だけど、少しずつ離れる方が回復は早いので、見て、考えてを繰り返しながらしこりをほぐしていくしかないだろう。
これはひとえに、年月が長すぎたからだ。これだけの作品であっても、もっとスパンが短ければこうはなっていなかったと思う。

だから仕方がないんだ。僕が悪いんじゃないんだ。

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ルミロックのヴンダー手ぬぐい。ヴンダーは「ヴンダーカンマー」だったんだね。ハンマーカンマーじゃないよ。ヴンダーに乗れぇ。

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