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考えすぎの日々学究ノート

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日々の考えすぎな考えごとを綴ったノート。
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2016年11月の記事一覧

何を描きたいか、が「あり方」
何を表現したいのか。

どうやって描くか、が「やり方」
どんな材料でどんな技法をつかうのか。

「やり方」は、「あり方」が
ハッキリとしていれば
自ずと最適解が導かれる。

みんな意外と、ネット上での伝達を過小評価しているのだと思う。リアルの方が「伝わる」のがあたり前だ、というように。

僕はネット上の言葉のほうが、感情や人の本質が伝わりやすいと思うよ。

一流の人って、一流になろうと思ってやるんじゃなくて、あのひと一流だねって周りから言われてる人だよね。

本人はたぶん、興味のあることをやり続けてるだけなんだよね。

人間や生命とは何かをワークショップで話し合った。

ロボットでも、「私」という自我があれば生命だという意見があった。僕もそう思う。僕はむしろ「身体」という不自由に意識がのっかっていることを生命というのではないかと思う。

意識体だけになって、天国に居てもそれは生命と思えない。

昨日は大阪で開いたセミナーで、「意識と魂と身体」の関係、という話になった。

私たちはぼーっとして「意識がとぶ」ことがあるが、「魂がとぶ」だと、それはほぼ死んだようなもんだ。また「魂」は私たちの感情に指令を与える存在と定義されているらしい。それって潜在意識だね、という話になった。

自分もできていないのに、人のことを言うのは恥ずかしいので、出来るだけ気をつけたいけれど、表現活動する限り完璧にはいかないもんだよね。

自分もできてないことを自覚できてなかったら、ことさら恥ずかしいので、せめて「自覚しながら人に口出してる」という痛みを伴っておきたいと思う。

三つ子の魂百まで、というが、「魂」を「潜在意識」におきかえると、そのまま脳科学や発達科学で言われていることと同義になる。

私たちは、暮らしの中に普通にある、知恵や格言などを軽んじて、科学など確証ばかりを追い求めることに時間を無駄にしているように思えてくる。

悔しいとか見返してやろうとか、思わないんだ?と、言われたんだが、

ずっとそういう性格でやってきた結果、からだをこわしたり、うまくいかなかったりしたので、いまの性格がある。

もう、そういうふうになろうとは思わない。自分のできることを素直にやる。

そこにゴミが転がってるとする。

「自分がかたづけときゃいい」と思うようにしよう。

「なんであの人はかたづけないんだ」とか、腹を立てたとする。

しかし、腹を立てることで、目の前のゴミが片付いたりはしない。文句をいっているあいだ、自分がさらにゴミを放置しているのだ、と考えよう。

音楽を聴くとき、「声」も楽器で「言葉」も音の1つという感じで聴いている。

それを言うと、言葉なんだから歌詞の意味をちゃんと聴くべきだと、たしなめられることがあるのだが、そう主張する人が歌詞の隠喩表現なんかを見落としていることに、何なんだよと思う。まぁ、愚痴です。すんません。

自我は、エゴを生み出す。
エゴは思考を偏らせ、行動を偏らせる。

ホメオスタシス(恒常性)に相反する。

つまり、自律神経系に対して負担を作り出してしまう。食に対するエゴが生活臭看病をつくるように。

自我は、ある視点から見ると、流れを詰まらせているのだな。

言わないように気をつけている
ことばシリーズ

腹をたてて
「じゃあ、もう二度と言わない」
などと言ってしまうこと。

二度と言わないなんてことは
ありえないのに、軽々しく
口にしてはいけないはずなんだよな。

言わないように気をつけている
ことばシリーズ

「ちゃんとして」

ちゃんとの内容を
ちゃんと伝えなければ。。。