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考えすぎの日々学究ノート

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日々の考えすぎな考えごとを綴ったノート。
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2016年10月の記事一覧

大人にとって生きにくい世界が、
子供にとって生きやすいわけがない。

成長というのは、他人と比べるもんじゃなくて、過去の自分と比べるもんだな。

ぼくは「意味」や「意図」というものに非常に執着している。

それを考えていて、あるとき気づいたことがある。

「人生に意味なんてない」と、とことん思ってみるのだ。すると、意味がないはずなのに存在できている、今この瞬間に感謝が溢れてきた。

「意味がないこと」に意味があったんだ。

僕たちは「無意識に言ったこと・やったこと」をとても、軽く考えている。

無意識だから、深い意味はないと思っているけど、無意識だからこそ、非常に深い意味がある。それは僕たちの意識でコントロールできないくらい大きな意味、ということだ。

そこに僕たちの「本当の意図」が潜んでいる。

「無意識に言う」ということは、
「無意識が言う」ということ。

「無意識にする」ということは、
「無意識がする」ということ。


無意識だから、意図がないんじゃない
無意識だから、意図を超えた
ちからが働いている。

「デザインしょうがっこう」というネーミングにはなんか批判的な意見もあったけど、僕が思うに、大人になってから足りないのは、小学校の頃ような「学び方」や「学ぶ楽しさ」だと思っていたんだ。

だから、デザインを知ってもらうとき、みんなに小学生にもどってほしかったんだよね。

「デザインしょうがっこう」という講座を企画して、神戸市さんに取り上げていただき、実施できたことがあった。

僕の理念は、デザインは生活文化として暮らしの中にあり、誰でも何気なくやっていることなんだ、というもの。

家事や、庭の手入れ、日曜大工、それがデザインらしい、と思う。

異性でも同性でも、誰かを好きになる、愛するというのは尊いとおもいます。

ただ、これは恋愛なのか、家族愛なのか、友情なのか、師弟愛なのか、なんて悩むことは誰でもあるんじゃないでしょうか。

カテゴリわけって必要かな?

「好きだ」「愛を感じる」そのことが大切だよ。

自分が苦にならないことを、しごとにしたほうがいいなと思い立ち。

それは「勉強だな」と。講師のしごとは、勉強や経験をお金に変えるしくみだけど、ちょっと違う。

「勉強をする」という行為をしごとにして、みんなが自分で勉強を楽しめたら、いいのにな。

僕は高校受験までは、勉強が好きで、ゲームのハイスコアをとるのと、大して変わらない感覚で勉強をしていたのだろう。

一年前に、自分のしごとについて考え直し、方向性を変えようとしたときに浮かんだのが「勉強」だった。

はてさて「じぶんが勉強すること」が、しごとになるしくみとは。

朝、目が覚めたら、僕の一日は完結する。

無事に、今日が始まった。

それで1日分の幸福は十分だ。

あとは、良かろうが悪かろうが
ぜんぶ贅沢なオマケだよ。

僕はマクドナルドとかで注文と違うものがでてきたとき、確認はするけどそのまま受け取ることが多い。特に飲み物は値段変わらないから。

廃棄されるのもったいないし。ああ「こっち飲め」って神様が言ってるんかなって思うし。
何より普段頼まないものを飲んでみるって、すごく貴重な経験だから。

20歳だったか21歳だったかの時に、学校帰りに紀伊国屋で「荘子」をみつけて読んでみた。

きっかけは、高校生の時「倫理」の授業がすきで、「老荘思想」に興味があったからだと思う。

そんなふうに些細なことで、考え方はころっと変わり、生き方も変わるもんなんだ。

僕は、何にでも文句の多い人は苦手だ。

自分はおおざっぱだし、不満なら関わらないか、意識しないか、なにせ「気にするから腹がたつ」と思うので文句がバカバカしいのだ。

しかし、もっとも苦手なのは
「僕が文句を言わないこと」に文句を言われること。これもひとつの意志表示なんだってば。