かんのちゃんのこと

頑張ります、精進します、努力します、前向きに。
ごめんなさい、恐縮です、すいません、申し訳ない。

かんのちゃんは、頑張りすぎだし、謝りすぎだ。溢れる才能と、パッと花が咲いたような笑顔のすてきな女の子なのに、いつも自分を卑下するようなことばを使う。謙りかたがちょっぴり過剰だ。
もうじゅうぶん頑張っていても手に入らないものは必ずある。自分の能力だけじゃない、タイミングや、運、いろんな、どうにもならない理由で。分かっていても(分かっているからこそ、かもしれない)かんのちゃんは自責する。努力の足りなさに理由を求めようとする。
たとえば恋愛がうまくいかないとき。「素敵なひとには素敵なパートナーがいる」のだから「精進します」といつか彼女が言っていたような気がするのだが、恋愛なんてずるい人間が得をすることの方が多い気もするし、すてきな彼女の周りにはすてきなひとが多いから、そう見えるだけだと思う。
こういうのも生存者バイアスとはまた違うぴったりくる呼び名があるのか、学のない私はよく知らないのだけれど、とにかく繊細で感受性の強い女の子に対して、周りもパートナーの些細な不満なんてあまり話題にしないだけだとも思う。だって、かんのちゃんは他人に悩みを打ち明けられたらまるで自分のことのように一緒になって悩んでくれるような女の子なのだ。
事実「すてきな彼女の周りにはすてきなひとがたくさん集まってくる」ことは、彼女が素晴らしいひとである証明にはならないのだろうか?(わたしみたいなぷらぷらしてるへんなやつのことは一旦無視して欲しい)

かんのちゃんは、誠実だ。やさしさがエゴイズムだと知っている。知ったうえで、いいひとであろうとし続けているし、実際とてもやさしい子だ。誰のことも傷つけたくないし、なるべく傷つきたくない、という「きれいごと」はわたしにもよくわかる。でもそれだってわたしのエゴだ。だから、相手のやさしさにいちいち恐縮しなくてよいのに。善意からくる行動で傷付けられたら「やさしいつもりで言ってるのかもしれませんが、余計なお世話です」くらい言ってやったってバチはあたらない。自分の首を絞めて、心をすり減らしてまで、やさしくなくたっていいじゃない。でも、それができないまま、傷つけてきた人のしあわせすら祈るような、不器用な愛にあふれるかんのちゃんは、とてもかわいい。かわいくて、危うくて、愛さずにはいられない。

かんのちゃんは普段、本を作っている。趣味で?と聞かれたら、わたしは「わからない、たとえ趣味かもしれなくても本気のやつだよ、すごくいいんだ。読んでみてよ。」と答えると思う。


『手すりほしい女』はかんのちゃんの卒業制作として作られた短編集らしい。わたしと出会う前に出された本で、詳しいことはよく知らない。SNSでのやりとりや、ネット上に上げられた彼女の文章が好きだったから買った。のだが、注文を勝手にキャンセルされてしまった。たしかにその数週間前にわたしは落ち込んでいる様子だったかんのちゃんにちょっとしたプレゼントを贈った。でもそれは似合いそうだな、と思ったからという自己満足である。
いくら「友だち」とはいえ、会ったこともないわたしに献本する義理など全くないし、お友だちだからこそ正当な対価を払わせてほしいと頼んだのだけれど、後日わたしの元に「おいしいものと愛」(レターパックの品名にそう書いてあった)と共に本は届けられたのだった。

彼女の作品には悪人が出てこなかった。『とっくのとうに』のタキはわたしの恋人と一緒で、オムライスの卵にも砂糖を入れる。ひとりひとり全員がそんなふうに個性をもっていきいきとこの世界に生きて、存在していて、だけれどうまく適応はできないのか、不器用に生きているひとばかりだった。

かんのちゃんはきっと、ほんとうの悪意を知らないのかもしれない。ことばの意味は知っていても、頭では分かっていても。どんなに悪意を向けられても、それを悪意として解釈できない。(もしかしたら、したくないのかもしれない。)やさしい自分のなかには実感としてない感情だから、理解できないまま傷付けられて、相手を理解しようと努力さえする。かんのちゃんはいくら愛情や善意を搾取されても、与えることを惜しまない。自分をすり減らしてでも、与え続ける。彼女に新しい顔を焼いてくれるジャムおじさんはいないのに。現れてくれよ、ジャムおじさん。
わたしにたいせつな恋人がいなかったら、かんのちゃんの全てを受け入れていちばんたいせつにして、ずっと側にいたいくらいだ。もちろん彼女がそれを受け入れてくれるかは別の問題だし、彼女に恋愛感情を抱いたこともないし、きっと恋人がいなくてもそういう気持ちで愛することはないと思うのだけれど(と、書いてから数日後に彼女のちょっぴりセクシーな写真を見てかなりの魅力を感じてしまったことは、正直に打ち明けようと思う)、恋人がいる分際でほかの他人をいちばんに優先することは彼に対してもかんのちゃんに対しても誠意がないことなので今のわたしにはそれができない。
でも、恋愛感情なんてなくってもかんのちゃんのすり減ったこころをきれいにもとのかたちにすげ替えてくれるジャムおじさんが現れるまで、ずっとずっとそばで、世間にあふれるたくさんの悪意から守りたくなってしまう。こんなにすてきな女の子は、なかなかいない。そしてこんなに危うくて壊れそうな女の子もなかなかいないんだぞ。誰に向かってではないけど、叫びたくなる。

でもみんな、守ってあげたくなるような弱さをかんたんに見せてくれる、でもその実放っておいても元気にやってくれるような強い女の子が好きなんだ。ほんとうは守ってくれているのに、守ってあげてる気分にさせてくれる子。モテる子ってたいていそういう子だ。
与え続ける強さをすぐに見せてくれる、ほんとうは弱いかんのちゃんは、それを目敏く見抜くひとにターゲットにされてしまう。かんのちゃんは強いから大丈夫、かんのちゃんはそんな女の子じゃないもんね、そうやって笑顔で言われたら、かんのちゃんは「うん」と笑って受け入れてしまう。自分の首が絞まっていることも、顔がほとんど食べられていることも、薄々気付いているのに、気づかないふりをして。

ねえ、神様は本当にいるのですか?
いるなら、かんのちゃんのことをしあわせにしてください。しあわせは自分で掴み取るものだって?そんなことは痛いほどに知っています。彼女にもその力があることだってちゃんと知っています。でも、彼女を不幸にするひとから守ってくれるくらい、それくらい、してくれてもいいじゃないですか。それすら高望みなら、誠実に生きることになんの価値があるというのでしょうか?

かんのちゃんは、今日何度目かの20代のお誕生日を迎える。正確には何歳のお誕生日なのかは、わたしは他人の年齢にあまり興味がなくて、共通の知り合いの話からわたしよりいくつか年下だということしか知らないのだけれど、このいちねんも、この先の人生も、なるべくたくさんのしあわせが訪れてほしい、がっしりと掴み取ってほしい、と願ってやまない。それはわたしが彼女の花のような笑顔が、こころからの笑顔が、たくさん見たいから。だいすきなかんのちゃん、お誕生日おめでとう。

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