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自己紹介を(哲学)する:第二話 幸せの研究

はじめに

前回の記事は、自己紹介から始まり「コミットするべき価値」を探す旅にでようと決めたところで終わりました。
今回の記事は、旅にでる前の準備といいますか、鞄の中を整理して、地図を用意して……そんなことをやっていくようなイメージで文章を書いていきます。
いま目の前に広げた地図には、まだ何も書いてありません。白地図です。
その地図に、今自分がいる場所を書き込みます。
そして、今まで自分が辿ってきた道を振り返ってみます。
そうすることで、これから自分がどの方向に向かっていきたいのかが、わかるでしょう。
それでは、よろしければ、お付き合いください。

目次
1章:これから/これまで
2章:幼少の時代について
3章:自分の言葉をつくるために必要なこと
4章:社会は壊れかけている
5章:幸せの研究

1章:これから/これまで

僕は「産まれてこなければよかったのに」という気持ちを抱え今まで生きてきた。
それが原因となってか、心の病に罹り、自分の人生観を振り返ることになった。

困った僕は、自分の気持ちと向き合うため、ヒントを探し始める。
医学、哲学、科学、仏教、芸術、いろんなフィールドに答えを求めた。

結果、それぞれの出会いを通じて、僕はいくつかのヒントを得ることができた。いまはそれらを結び合わせいって、地図をつくるつもりである。

その地図は、これからの自分と社会の関係を整理し、これから残りの人生をどのように進んでいくかを図るための道具になると思う。

今日書く文章では、これまでの自分と、社会との関係を整理したい。
自分の立ち位置をハッキリさせるためにも、必要なことだからだ。

2章:幼少の時代について

産まれたばかりの子供は、社会を知らない。
だから、大人たちは、子供が成長する過程で、社会とはいかなるものかを教える。

子供は保育園、幼稚園、小学校、中学校……子供たちはそいった場所で、社会に参加するための訓練を受ける。
そこでは「先生」という立場の大人がおり、生徒である子供たちに様々なことを教える。

学校で習うことといえば、国語数学理科社会……そういった教科を思い浮かべるかもしれないが、ここで取り上げたいのはそれとは別なことだ。

「先生」はあるいは、子供を教育する大人は、子供たちに未来を語る。
その未来の語り口は、「社会はこのように成り立っていて、だからお前たちにはこのような能力が必要になる。だから勉強しなさい」というような流れに集約されるだろう。

子供たちは、社会のことをまだよく知らないので、とりあえずは大人の言っていることを聞くしかない。
でも私は、その構図に不満を感じている。
それは、大人の語り口の中に、沢山の欺瞞が混ざっていた、と感じるからだ。
僕の憤りは、幼稚な怒りかもしれない。
でもその怒りは、癒してあげる必要がある。
その当時、大人の言うことを鵜呑みにし、自分をないがしろにしてしまったことを自分自身に謝罪する必要がある。
その謝罪を通してしか、自分を癒すことはできない。

私が子供のころ、1990年代、大人たちが語る未来は、このような形をしていた。
・子供時代は勉強に励む。そして「いい学校」に入学する。
・できるだけ地位の高い大学に入学すれば、就職に有利である。
・今の社会は不況だ。だからできるだけ大きな企業に就職して、安泰な生活を手に入れないといけないし、そのためにももっと勉強しないといけない。
・大きな企業に入ったら、あとは仕事に励む。
そのほかにも、世の中の広告が、庭付き一戸建て、高級な外車、それらを持った豊かな生活が人を幸せにする、と常に語り掛けていた。

僕はそんな大人たちの言うことが信じられなかったし、信じなくて正解だったとも思っている。

2020年から振り返ってみて、社会ではこんなことがあった。
・1995年、地下鉄サリン事件が起こった。
・2001年、アメリカで同時多発テロが起こった。
・2011年、地震が発生し、それが原因となり原発が事故を起こした。
・2019年、新型コロナウイルスが世界に蔓延した。
・2022年、新しい戦争が始まった。

僕が子供の頃の大人たちは、どれくらいのリアリティをもって、未来のことを語っていただろうか。

大きな事件が起こる度、僕はどんどん社会のことが信じられなくなっていった。そして僕は長く暗い、悩みのトンネルに迷い込むことになった。

なにが起こってもおかしくない、なのに、今日と同じような毎日が未来永劫続いていくかのように信じて、みんなが生きている。
いろいろな現実を見て見ないふりして、やり過ごすことが作法になっているように感じた。

確かに社会というものはなくならないし、今日と同じような明日が来る。
でも、のほほんと、なんとなく、未来の平和を信じて過ごすことは、もうできない。

だから、自分の目で世界を見て、自分の手で確かめる必要がある。
そのためには、自分の言葉が必要だ。

3章:自分の言葉をつくるために必要なこと

僕は、長く暗い悩みのトンネルの中で、気づいたことがある。
それは、自分の言葉をもっていないということだった。
僕が使っていた言葉は、いつも誰かから聞いた言葉だった。
自分でゼロから考えて、自ら言葉を生み出す。そういったことは、実はしたことがなかったのだ。

しかし、今のような壊れかけた社会で、自分なりの生き方を探すためには、自分の言葉が必要だ。
だからいま、社会というのは一体何なのか、僕なりに考えてなおしてみたいと思う。

人間はもともと、定住はしていなかった。
進化の過程で、狩猟採集から集団定住の生活に移り変わったのだ。
集団定住で生活をすることにより、食べものの余剰が生まれることになる。
余剰によって物々交換が可能になった。
そして、集団に所属する人間の「やること」がバラバラになっていった。
そのようにして集団が発展していく風景が、何となく見えてくる。

大きくなっていく集団は、ひとつではなかった。
地域ごとに、発展していく集団があった。それらは、いずれ出会うことになる。
出会えば、戦いが起きた。
戦いの末、ふたつあった集団はひとつに統合される。
そうやって集団はさらに大きくなっていった。

集団に所属する人間が増えていくと、集団の性格も変わってくる。
それぞれの集団に権力を持つ人物が現れ、規律やルールが生まれる。
たぶん紀元前500年くらいのころには、上記のような風景の人間社会が営まれていたと思われる。今から2500年前くらいのことだ。

 2500年の間に、人間の数は爆発的に増加した。
これは社会学者の宮台真司さんが言っていたことだけど、進化心理学によれば、人間が「仲間」と思える人数の範囲は150人、どんなに多くても2万人までだそうだ。
もしかしたらその閾値を超えたあたりで、社会は虚構になってしまったのかもしれない。

4章:社会は壊れかけている

社会は虚構を維持するために、様々な工夫を行ってきた。
しかしそれらの努力は2022年のいま、限界に差し掛かっているように見える。
みんな、ルールを守るよりも、自分を守ることの方が大切だから。
それは当たり前だ。いいとか、わるいとか、価値観の問題ではなく、生物として、自分のことが大切である、という次元の話で。
だから現在、社会がより自分のことの方が大切なのは、誰にとっても当たり前のことだと思う。

虚構である社会にコミットメントするには、価値観が必要だ。
でも、今の社会は、人に「コミットメントしたい」と思わせるような価値観を提供できていないのではないか。
そして、ますます人はバラバラになっていく。

僕はそんな壊れかけた社会を信じることはできない。
しかし、僕は、僕たちは、否応なく社会の一部として生きているし、それ以外の生き方なんて、想像することすらできない。
加えて、「社会の中でどうやって生きていけばいいか」すらもわからない。

前回の投稿で、コミットすべき価値を自ら選び取らなくてはならないというのが近代の規範である、という言葉を紹介した。
にもかかわらず、コミットすべき価値そのものが、社会のどこにあるのかわからない。

実際そのせいで、生きている意味がわからなくて、行き詰っている人が沢山いるんじゃないかと思う。
令和2年の自殺者数は、2万人を超えている。
みんながみんな、同じことを考えて死んでいくわけではないけれど、今の社会にコミットするべき価値が見つけられずに、死んでいった人も沢山いると思う。
実際僕も長い間、社会にコミットすることができず、「産まれてこなければよかったのに」という気持ちを抱えていた。

5章:幸せの研究

「産まれてこなければよかったのに。」
僕のそのような気持ちは、30歳を過ぎてやっと解消することができた。

解消できたのは、過去のことも、未来のことも想像することを止めて、今ここにいる自分を見つめ返すことができるようになったからだと思う。

すると、囚われていた思考が解放されて、新しいことを考えることができるようになってきた。
それは、人生を楽しむ、ということだった。

人生を楽しむには、どうしたらいいんだろう。
僕には、人生の楽しみ方がわからない。
なぜなら、これまで生きてきて、人生は楽しいものだなんて、一度も考えたことがなかったのだから。

人生が楽しければ、きっと幸せなんだろう。
そして僕は考え始めた。自分にとっての幸福とはいったい何だろうかと。

幸福とは、その本人が幸せを感じている状態、としか言い表せない。
しかし、世界に同じ人間は二人と存在しないわけだから、すでに用意されている答えというものはない。

これは大きな衝撃だった。
僕はいつも悩んだら、人に聞いたり、ネットで検索したりして、答えを探そうとしていた。それがあたりまえだった。
でも、幸せについては、それができない。
人に聞いてもわからないし、ネットで検索しても出てこない。
これは自分でゼロから考えて、自ら言葉にしないといけないことだった。

それが自分の言葉と向き合う最初の段階になる。

幸せとは、どんな状態のことを言うんだろう。
まず、それは充実していることだと思う。
幸せを感じている状態のときは、いつも充実感があるからだ。
では、充実とはいったいなんなんだろう。
「充実」の意味を辞書をひきながら考えてみる。
①充実とは、中に隙間なくいっぱいにみちていること。
つまり、心という器の中に、幸せという感覚が詰まっているということか。
②必要なものが充分に備わっていること。
なるほど、不足感がない、満足している、ということがポイントなのかもしれない。

なんとなく、輪郭がぼんやりと見えてきた気がするけど、まだわからない。
幸せ、という言葉の定義をもう一度考えてみる。
「運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運」などと出てきた。これは全然だめじゃない?全然定義できない。
他には、「その人にとって望ましいこと」と出てきた。
これはなかなかいいかもしれない。
望み通りになること、というのはポイントになるかも。だから、運、という言葉がさっき出てきたんだな。
でも僕としては、運によって望み通りになっても、それと幸せはまた別の物であると感じる。
それはともかく、人間は、望み通りになると幸せになるということがわかってきた。
でも難しいのは、人間が自分の望みをすべて把握できているか、というと、そうでもないんと思う。無意識というのは、そういう機構なのかもしれない。
豊かになること、という意味もでてきたな。
無事であること、変わりなく……つつがなく……そういった状況も幸せであるらしい。つまり、満足しているということだ。

望み通り、というところについて、もう少し考えてみることにする。
それは、何かの実現を願うこと。
この定義はとてもスッキリしている。
望みというのは、願いである、願いと祈りはとても近い。
祈りとは、世界の安寧、他者への想い、利他の精神でもある。
良いことを、願う。
良いこと、とはどんなことか。
行動、性質、状態などが、一定の水準を超えているさま。

これまでの内容をまとめると、
不安がないこと、自分が一定の水準を超えていること、望み通りに進むこと。このような条件のもと、幸せというのは自分の内側から湧き上がってくるらしい。

わかったことは、幸せになるためには、自分の望みを自覚しなければならないということだ。
自分の望みを自覚し、さらにそれが望み通りに進み、最終的に心が満たされる。すると人は幸せであると思える。

しかしやはり、自分の望みを自覚する、というのは難しい。
その望みとやらは、無意識の領域に根差しているからだ。
無意識は、意識が届かないわけだから、こうして言葉を綴っている自分には認識できていない。
今綴っている言葉を後から読み返して、あるいは他人がこの文章を読んで、初めて解釈できるのかもしれない。

でも手がかりはありそうな気がする。
それは、「楽しい」と「嬉しい」と感じる心である。
きっと自分の望みというものに適っているとき、人は楽しかったり、嬉しかったりするはずだ。それは自分の人生の経験則からいってそうだ。

僕は自分が楽しめることを、探し始めることにした。

おわりに

今日の記事では、自分の人生の軌跡をたどりながら、現在の地点までもどってきた。
進むべき方向は、楽しそうな方に進む。という方針で決定した。
これから僕は、自分が楽しそうだ、と感じる方角へ歩みを進めることにする。
その結果、何か収穫を見つけたときは、みなさんにまた、ご報告したいと思います。
それでは。

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