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福岡伸一哲学のエッセンス:ロゴスとピュシスのあいだ

☆この記事では、下記のようなことが語られます☆

1.ロゴスの力によって世界を把握することで、「種」ではなく「個」としての生命の価値を見出す

2.人間はロゴスによって文明や文化を作りつつも、ピュシスに依拠し、それを受け入れざるを得ない

3.ロゴスの行き過ぎがもたらした最大の害悪は、富が腐らなくなること


こんにちは、ヤナギマチです。
今日は、生物学者の福岡伸一さんについて勉強したいと思います。
突然ですが、「DIG THE TEA」というwebサイトをご存じでしょうか?
第一線で活躍する知識人へインタビューをする「現代嗜好」という連載がとても面白いです。
その連載に福岡伸一さんのインタビュー記事がアップされています。
インタビューの内容は、生物学者福岡伸一さんがもつ哲学というか、その哲学のエッセンスを凝縮して伝えるような内容でした。
今回はその内容を、僕自身の復習もかねて、みなさんに共有させていただきたいと思います。
記事の最後にサイトのリンクを載せておきますので、気になった方はぜひそちらもご覧ください。
この記事では、インタビューの中に散りばめられていた、福岡伸一さんの哲学、そのエッセンスを取り出して並べてみたいと思います。

タイトルにもある通り、全体の流れは「ロゴス」と「ピュシス」という概念の間を行ったり来たりしながら進んでいきます。

インタビューの冒頭はリチャード・ドーキンスが提唱する「利己的な遺伝子」に対する反論から始まります。
「利己的な遺伝子」の視点から世界を見れば、生物の目的は「交配し、繁殖する」ことであり、それぞれの個体は遺伝子の乗り物にすぎません。
たとえば、昆虫や魚を引き合いに出せばその特徴がよくわかります。
大量の卵から大量の小さな命が生まれますが、その殆どが他の生物の餌になったり、野垂れ死んだりしてしまいますよね。
しかし、生まれた中からからほんの一部の個体が成長し、パートナーを見つけ、次の世代へと遺伝子を残すことができれば問題ないということです。
その価値観に沿って言えば、「個」は「種」を存続するための道具でしかなく、個々の生命に大きな価値はない。そんな残酷な生命の実態を見て取ることができます。

しかし人間は、その残酷な生命の実態に「否」と言うことができます。
遺伝子の仕組みから完全に自由になることは出来ないとしても、「必ずしもそれに従わなくても生きていけるんだ」と気づいたことが、人間が長い進化の末に勝ち得たパラダイムである、と福岡さんは語ります。
思想を基盤として、「種」ではなく「個」としての生命の価値が生まれる。
ひいては現代の人間を人間たらしめている「基本的人権」へとつながっていきます。

なぜ人間だけがこのようなパラダイムを獲得することができたのでしょうか。問いに対して、福岡さんは「ロゴス」について語ります。
インタビューの中から、福岡さんの言葉を引用しましょう。

端的に言えば、脳が大きくなったから、言い換えればギリシャ語でいう「ロゴス」を作り出したからです。
ロゴスとは、言葉、論理、アルゴリズム、世界の構造といったもの。
脳が世界をロゴス化する力をもったことで、遺伝子をDNAや塩基配列といったかたちで把握し、相対化することが可能になり、その束縛から自由になれました。
ロゴスの力はものすごく強力で、それによって人間は文化や文明を作り得たわけです。

https://digthetea.com/2022/03/shinichi-fukuoka1/

福岡さんは上記の説明に、さらに歴史学者ハラリの言葉を付け足します。
「フィクションの力が人間を人間たらしめた」
ここでいう「フィクション」はすなわちロゴスであり、世界を情報化し、言語化する力です。
現代人が社会で生きる上で前提となっているものたち、「人権、法律、国家、経済、農業、IT、AIその他のテクノロジー」は「フィクション⇒ロゴス⇒世界を情報化し、言語化する力」によって生み出され、人間はそれを享受する。
このような世界の見方が提示されます。

ここまでの話をまとめると「なにが人間を人間たらしめているか」という問題に対する、福岡さんの哲学が見えてきました。
その核心は、ロゴスの力によって世界を把握することで、「種」ではなく「個」としての生命の価値を見出す視点にあると思います。

このあと議論は次の段階へ入ります。
冒頭は人間社会の基盤となっている「ロゴス」を中心に話が進んでいきましたが、今度はそれを相対化する概念、「ピュシス」について説明されます。
ピュシスとはギリシャ語で「自然」という意味。すべての生命の源ともいえる抽象的な概念です。
福岡さんは、ロゴスは人間が恣意的に世界を切り分けた虚構に過ぎず、ピュシスを完全にロゴス化することはできないと看破します。
この部分にも、福岡さんの哲学の哲学が現れているように見受けられます。
福岡さんは「人間はロゴスによって文明や文化を作りつつも、ピュシスに依拠し、それを受け入れざるを得ない」といいます。
記事の言葉を引用します。

たとえば遺伝子の構造や、細胞の中でタンパク質が生成されるメカニズムは、科学の力でロゴス化されました。しかし、自然は本来コントロールできないものであり、ロゴスの力で完全に制圧することはできません。いつ生まれてくるか、いつどのように死ぬか、どんな病気にかかるか、なにが欲しくなるか……そうしたピュシス本来の、生命の動きは、コントロールすることができないのです。

https://digthetea.com/2022/03/shinichi-fukuoka1/

ここで、現代を生きる私たちのパラダイムを振り返ってみましょう。
「フィクション⇒ロゴス⇒世界を情報化し、言語化する力」を信じる私たちは、この力を過信し、この世界のすべてをロゴスで支配したいという欲望に駆られているのではないでしょうか。
ロゴスはピュシスの力をタブー化していきます。
性的なものが隠蔽され、病気は病院に押し込められ、死が日常から遠ざけられる。
現代社会はピュシスをタブー化して押し込め、ロゴスだけで成り立っているように見せているのかもしれません。

ロゴスへと偏重した社会ではどのような弊害が生じるのでしょうか。
その答えにも、深い洞察が見られます。
福岡さんは「ロゴスの行き過ぎがもたらした最大の害悪は富が腐らなくなることです」といいます。
記事の言葉を引用します。

ロゴスの行き過ぎがもたらした最大の害悪は、富が腐らなくなることです。そもそもピュシス的なものはすべて、エントロピー増大の法則によって劣化し、腐り、駄目になります。その最たるものは食品で、生物は生きていくために食べねばならず、獲物を捕らえるわけです。そして、自分が食べる以上に収穫があっても、結局は腐って何の役にも立たなくなってしまうので、他の生物に手渡すという、利他的な行動を取ることになる。
しかし、人間はロゴス化することで、自分が得たリソースを腐らないものに変えられるようになった。それが貨幣であり、土地や債権といった富です。リソースを腐らない記号に変えることで、利己的に蓄積できるようになったわけです。その革命こそが資本主義社会を生み出しましたが、現代社会ではそれが行き過ぎているのです。

https://digthetea.com/2022/03/shinichi-fukuoka1/

上記の議論を深堀するには、それだけで本を一冊書かなければならなくなりそうです。
議論の是非はひとまずおいて、「人間はロゴス化することで、自分が得たリソースを腐らないものに変えられるようになった」という部分は福岡さんの哲学的な視点を表しているように感じられます。

話しが少し脱線しますが、僕は最近『現代社会の存立構造』という本を読んでいます。
その本のなかでは、マルクスの資本論を下敷きに、人間が疎外されるシステムが鋭く指摘されています。
『現代社会の存立構造』という本の著者は、つい先日、惜しまれつつも亡くなった社会学者見田宗介さんですが、このロゴスとピュシスの対立は、見田的な視点でいうと「ピュシスから疎外されていく人々」という語り方もできそうです。

さらに脱線を続けると、僕が最近興味を持っている精神医学の話にも繋がっていきそうです。
心とは一体何か、その正体は未だはっきりとしません。
それは、ロゴスとピュシスが混ざり合ったものだからなのではないでしょうか。
脳は体の一部です。だから、今日の議論で言えばピュシスとしての性質をもっています。
しかし脳は言葉を司っている器官です。ロゴスを生み出し、それを操って世界を解釈していきます。
心の病気に対するアプローチは、投薬と心理療法がありますが、投薬は身体に直接的にアプローチします。
対して心理療法は、クライアントのロゴスにアプローチしていると言えるのかもしれません。
最近注目されているオープンダイアローグという心理療法は、対話をするだけで心の病が治ると言われていますが、それは精神の病が、ロゴスの病であり、対話という言葉を使ったアプローチが、病んだロゴスを癒すのだと考えられないでしょうか。

話を本筋に戻します。

福岡さんは、ロゴスとピュシスの世界を行き来することを推奨します。
ロゴスとはロジックであり、解像度の高い言語を手に入れて初めて、他の人々と知を共有することができるからです。
現代の最新の科学でも解明できない現象はあります。
だからロゴスがすべてを解決すると考えることは行き過ぎた考え方でしょう。
しかし、といってロゴスをおざなりにすると大雑把な言葉でしか、物事を語れなくなってしまいます。
「宇宙は全部つながっている」「地球はガイアである」「サムジング・グレート」そういう言葉を使って気持ちが良い人は問題ないかもしれませんが、近代科学の中に身を置く者としては、やはりピュシスも新しい解像度の高い言葉で語るべきであると考えています、と福岡さんは語ります。

人間は結局、言語から別離することはできません。
しかし、言語ですべてを語ることもまたできません。
この二つの不可能性の間を行ったり来たりしながら、新しいパラダイムが生み出されていくんですね。

インタビューの後半では、福岡さんが「私たちはどのように生きるべきか」という大きな問いに向かい合います。
そこで話題の中心になるのは「センス・オブ・ワンダー」という言葉です。
子供の頃には誰もが自然に持っている「驚く感性」という言葉で、福岡さんはそれを説明しています。
また人間の「子供時代」に特別な意味を見出しているようです。
記事の言葉を引用します。

子ども時代というのは、実は人間にだけ準備された特別な時間です。人間のように、性的に成熟するまでに十数年もかかる生物は、他にはいない。他の生物にとって、幼年時代は生殖年齢に達するまでの線形的な時間であり、できるだけ早く栄養を取り込んで身体を大きくし、性的成熟を達成しようとします。ですから、サルは生後5〜6年で生殖年齢に達するし、ネズミなんて生後6〜8週間も経てば交尾できるようになるわけです。でも人間だけは、第二次性徴に達するまでの十数年、長い子ども時代がある〔……〕私が思うのは、性から無縁の子ども時代こそが、人間を人間たらしめていると思うんです。

https://digthetea.com/2022/03/shinichi-fukuoka2/

この人間特有の子供時代に「遊び」という、無目的に、ただ楽しむことを純粋に楽しむ、という特別な時間が与えられます。
そこで出会う何かが、人にセンス・オプ・ワンダーを与えるのかもしれません。
人は大人になるにつれて、様々な慣習を学び獲得していきます。
それと同時にセンス・オブ・ワンダーを忘れていきます。
この忘れてしまった「何か」を思い出すことが、私たちの人生を生きなおすことを可能にしてくれると、福岡さんは語ります。

この記事を読みながら、自分でも考えてしまいました。
自分にとってのセンス・オブ・ワンダーとはいったいなんだっただろう。
その驚きの感覚はまだ、身体のどこかに残っているだろうか……?
考えてもよくわからない、というのが正直な感想だけれども、これまでの人生の進路を決めてきたのは、おぼろげながらに残る、センス・オブ・ワンダーの感覚だったかもしれません。

今日お話しした、ロゴスとピュシスの話も、僕にとって新鮮な驚きを与えてくれるひとつの経験になりました。
何かがわかるような、わからないような、そんなあわいを漂う感覚が楽しい。
みなさんにもそんな楽しさを共有できたら、とても嬉しいです。



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