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YUMEJI展のメモ

 東京都庭園美術館へ行って来た。YUMEJI展をやっていたのであって。


 庭園美術館の部屋のコンセプトに合わせて作品を置いてあるのか、と想像されるものもあって、おもしろく体験してきたのであった。

 なかにはPHOTO SPOTという場所もあって、皆そこで何やら撮っていた。あるいは「撮影OK」という作品を撮っていた。わたしは撮っていない。ひとつだけ。大きな垂れ幕だけ。ヘッダー画像がそれである。目黒駅から美術館へ行く途中にも広告があったけれども、ひとつも撮っていない。

 たとえばnoteで撮影OKの美術館の様子を丁寧に紹介する記事がある。ああいった器用さがある人をみるとうらやましいと思う。それはわたしにそういう能力がないからで、ほとんど画像は撮らない。撮りたい気持ちも理解できるけれども、わたしはショボいすまほしか持ってないので、べつにええか、と思ってしまうのである。作品を撮ろうとして、ガラスの反射であるとか照明の当たり具合、すまほのアルゴリズムによる色調の調整なんかが入るかと思うと、わたしにとっては「そこへ行った」以上の意味が見当たらないし、それは当日そこへ行ったというチケットが証明しているのだから、もうそれでええのである。


 足を運んだ直接のきっかけは、映画ハリーポッターである。映画に出てくるクラウチ・シニアの顔がどことなく「夢二っぽいな」と思っていたので、クラウチさんは本当に夢二っぽいのか、を知りたくて足を運んだのであった。わたしは夢二の描いたものをこれまでたくさんみたわけではなく「着物を着た、若い女性を描いた人だ」という漠然とした印象を持っていたにすぎない。

 にも関わらずわたしはあまり明晰でない頭脳しかもっていないために、事前に思っていたことを忘れてしまったのであって、結局クラウチ・シニア=夢二作品説について何の検証もしなかったのである。まったく何しに行ったのであろうか。

 一方で作品群を見ているうちに、夢二の描く人物(やはり、着物の女性が多かったのである)の何ともいえない存在感が心に留まるようになった。そこに描かれた人から発散される抒情というか感情というか、見た瞬間に心に広がる波紋のようなものである。
 それは具体的に「嬉しさ」であるとか「悲しさ」というようなわかりやすいひとことで捉えられる感情とは違っている。表面的には「アンニュイ」とか「愁い」のような単語で括られることもあるが、何かしらのきっかけでうごいた心持ちを顔の表情に出しているように思える。その表情に至った背景があって、これから言葉を発して未来へ向かおうとする現在を切り取ったような。
 夢二の描くあの細身の「夢二スタイル」がその情緒的な印象を与えるひとつの大きな要因でもある。その細い身体のなかで特に目立つのは手であり足である。手先や足先をおろそかにせず描いていて、大きい。大きいというのはそれを描きたいという気持ちの発露であり、つまり重要だということでもある。
 顔の表情は、手の動きや足の動きに呼応して読み取られるものである。目は口ほどにものを言うという言葉があるけれども、それに似て、描かれた手足の様子もまた同様にものを言っているのである。
 手足だけではない。作品の中には、後ろ姿から、うなじから、言葉になる寸前の情緒が感じられて思わずうなってしまいそうになるものがある。
 うなってしまいそうになるのはその絵、佇まい、表情からどんな言葉が発せられようとしているか適切な単語で言い表すことができないからである。
 そこに確実に感情はある。それはわかる。けれどもそれをうまく言い表すことがどうにもできない。何度もみてしまう作品にはそういった不思議な「そこに存在する情緒」が感じられる。夢二式とされるスタイルはそれを指しているように思われる。


 夢二の残したデザインや絵画が文学作品であったと仮定したら、そこに夢二特有の文体が存在する、と言えばそんなに間違ってないように思うんですが、どうでしょうね。



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