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てもとにあるもの

特に何ということもなく。

・「原っぱ」という社会がほしい 橋本治
・廃仏毀釈 畑中章宏
・グレート・ギャツビー フィツジェラルド
・夢の守り人 上橋菜穂子


先週、お会いしたみなさまからいただきものをして、ありがたくうれしく思った。ちょっとした手間がかけられていたり、ちょっとした心遣いにふれたりすると、なんて細やかなんだろうと思い、なぜそのように思うかといえばわたしがそうでないからであった。
そういった方々とお会いできるのはうれしく、何だかちょっと恐縮である。


技術の伝播、というようなことを少し考えていて、日本においては庶民の生活が豊かになることで貴族文化のまねごとが展開していったのに似て、技術も同じ道のりを辿るにちがいないと思う。
技巧というカテゴリで括ってしまえば、たとえば歌を詠むこととやきものを焼くことに違いはない。歌は実用に資する物質ではなく、やきものは形をもった実用的なものである。
実用的なものの歴史は、手元にあるがゆえにあたりまえで、手元にあるがゆえに軽視される。たとえば醤油差しの歴史なんて誰も気にかけない(いや、今なら、みうらじゅん的な、デイリーポータル的な視点で気にかけてる方がいる可能性はあるのだけどね)。
誰も気にかけないとそれは後に残らない。実用的なものはつねに一段下のものとして見られる。


天気を気にして、何度も雨雲レーダーを見る。真っ赤なエリアがコマ送りになっているのを確認して、買い物へ行くのをやめた。テレビを点けた。「今、呪々坂駅です! すごい雨です! 雨に混じって時折護符が飛んできます!」とわざわざ安ものの雨合羽を被り、雨になぶられ、マイクを持って演出崩れた実況をしている若者が映っている。こういうのが世の仕事なら頭を使わないだろうと思った。羨ましいが、競争率は高いだろう。
彼の顔に雨に濡れた護符が貼り付いて、その瞬間から黙った。気楽だな、と思った。


実用的なものであってもそこに「歴史的変遷がある」と発見したときにはじめて、醤油差しという「歴史を持つ固有概念」が前面に浮き出てきて、突如としてそれが尊い価値のある概念のように思われてくる。日本人がバカにしても、現代美術の変遷の符牒に合うようストーリー作りをして欧米のどこかで展覧会でもやってみればきっと、日本人は諸手を挙げて醤油差しをありがたがるだろう。


フンボルトペンギンというのがある。糞で発電し、起電力、つまりボルトを得るのだろうと大真面目に考えている者は、手を挙げなさい。
そう言われて教室で手を挙げる学生は居なかった。わたしは自らの発言を冗談だと言いたくなったのだが、講義の後に集めた学生たちのリポートの中には、これからはエスデェジィズなのだから、エンジョイデイズすべきだという主張があって、次はもっと的の外れたjokeを用意しようと思った。jokeを言う人はきっとjokerなのだから、顔を塗った方がいいのだ。今から練習しようと思う。


明治時代になって、継ぎ木のような概念を取り入れてそれを「手の内にしている」という勘違いをしたままここまできてしまった。日本の思想といっても、歴史の教科書に載っているものをある程度の確度で把握している人は少ない。それを通史として見た場合はなおさらである。


雨が降ると、その幾らかの割合の水分は地面に吸い込まれていく。同じように、寝っ転がっているとわたしの生命力は幾らかが地面に吸い込まれていく。漏れている生命力たちが吹き溜まりに集まる。それは澱んだ水が排水口に集まって異臭を放つのに似ている。わたしはそういう場所を避けて通るのだが、生命力の澱みが溜まっている場所を好み、そこから離れようとしない人がいるのに気づいた。見えないのだろうか、臭わないのだろうか、と思うのだが、文字通り住む世界が違うのだろうと思う。水溜まりは掃除する人がいるが、生命力の澱みの掃除人はいない。


知ろうとした時に、本はそこだけ背表紙が目立つように、本棚に収まっているように思う。


支離滅裂な書きさし。

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