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和歌とはいのちをつなぐもの

歌集をながめて
むかしは目に留まらなかった歌をみつけた。

露は霜 水は氷に とぢられて
    宿借りわぶる 冬の夜の月 

千五百番歌合 冬歌一 二条院讃岐

彼女の歌は
新古今にも十六首採られたとのことで
歌詠みとして
かなりの腕前だったことが伺える。

わたしは
塚本邦雄の「王朝百首」をながめているのであった。


中学校では
「万葉集、古今和歌集、新古今和歌集がある」
という程度のことを知識として教わる以外に
冬は百人一首のかるた大会が催された。

百人一首がどういうものなのか
通り一遍の説明から踏み込むことはなかった。

それを覚えることの方が大事であって
百首の背景に膨大な数の歌があることは、
知らされないままであった。

あるいは、教師さえしらなかったのかもしれない。


そして
子供向けの解説はいかにも子供向けであって
言いたいことを言い切らない
ある意味では「日本的な」ものであった。

「どうせ理解できないだろう」というのは
「解説する側が理解していない」ことでもあって
そのような本であっても
澄ました装幀で本屋に並んでいる。


わたしが知りたかったのは
その歌を過たず現代語に逐語訳したり
カッコを埋めて点数をとるためのコツではなかった。

わたしが知りたかったのは
聞き手の想像力にはたらきかける言葉の不思議さであったり
時代を経てなお残る歌の豊かさであったり
あるいは
歌を声に出したときに残る余韻であった。

それを大人から聞きたかった。


つまりは
風雪に耐えた歌をきっかけにして
「心は言葉とつながっている」と自覚するきっかけを
無意識に求めていたのであった。


やまとうたは
人の心を種として
よろづのことの葉とぞなれる。

古今和歌集 仮名序

わたしはいつも
古今和歌集の仮名序に心が立ち戻る。
それしか知らないのだ。

古今和歌集は、その真名序に
「続万葉集」
として編まれたことが書かれている。

人の心を種とする。
人の心とは、人のいのち。

そうであるならば
和歌とは命をつなぐものではないのか。

であれば、万葉集に遡ることで
和歌とは命をつなぐもの
という源流にたどりつけるのかもしれない。


人の口から外に出たコトバが、
現実のコトガラとなってあらわれ、
現実生活を左右すると考えられていた。


ウタには
みずからの心や魂を訴える機能があるのであり、
おのずから
文学的主題以前に呪的主題が潜在することになる。

万葉集を知る事典

人の口から出た言葉が、現実生活を左右する。

万葉の時代、
自分の名を知られると知られた相手に所有される、
と考えられていた。
口から出す言葉の重みが想像される。


歌を奉り忠誠を誓う
歌を通じて魂へ呼びかける
歌を口に出して土地の神を崇める

口を通じて心を表に出し
これは
自分の外側の世界へ影響を与えるものである。

それが和歌ウタであって
和歌とは
自分の命をつなぐものでもあり
他人の命をつなぐものでもあった。


いま
わたしがその和歌に触れられるのは
日本が言葉を大切に扱ってきたからであって
今までいのちをつないできたからであった。

そして
日本語を母国語としているから
そのことばの向こう側をみようと
試みることができる。