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ポール・ゴーギャン / メトロポリタン美術館
みる
昨日、何の気なしにこういうことを書いた。
見ている人がいるのは、それだけで幸せなことなのだ。けれども本人はそれに気づかない、という世の中のかなしさを、ぼくは到底書ききれない。
見ている人がいる、ということについて思い出す。見る、というのは、看る、でもある。手をかざして、みる。
ひらかなで書くとどちらも「みる」。
みると、わかる。日本語でなくても、英語であっても、" I see. " ということがある。みる、ということはわかる、ということでもあり、看る、というのは見守る、ということにもつながる。
私淑する鷲田先生のおっしゃったこと。
子どもがはじめて幼稚園に行ったとき、母親から離れてひとり集団のなかへ入ってゆくときの不安は、だれもが一度は経験したはずです。ちらちら母親のほうをふり返り、自分のほうを見るその顔を何度も確認しながら、恐る恐るやがて仲間となるはずの見知らぬ他者たちの輪のなかへ入ってゆく……。
人にはこのように、だれかから見守られているということを意識することによってはじめて、庇護者から離れ、自分の行動をなしうるということがあるのです。
だれかから見守られている
ということを意識することによって
はじめて、
庇護者から離れ、自分の行動をなしうる
「見守られている」は、その状況をそれと意識することはなくても、「安心感」であって「立ち返る場所」であって「遠くから振り返って、そこにあることを確かめる場所」という言葉であらわすこともできる。
みる、とは。
眼差しを向ける、ということ。
あなたのことを気にかけています、ということ。