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【ピリカ文庫】文章で旅をする

旅というもの。
今日は文章でちょっとした旅を仕立ててみようと思います。


 旅をする。

 読む人が、文章に乗せられて書き手と共に旅をした気分になるものでなければならぬ。
 書き手がただ独り「旅をした」と書きつけて満足するのみでは、読み手がその言葉の並びに共感することは無い。何をどう書けば、書き手と読み手は同じ旅に出られるのか。

 私は四月の明け方まだ暗いうち、初めて訪れた都会の駅から歩いていた。どちらへいけばどこへ往き着くのか知らぬまま、車の走る方、人の出て来た路地の方、勝手知ったる地元の顔して見知らぬ土地を歩いて往くのであった。見知らぬ土地を歩いていながらその空気を我が物とするすべを知ったのは、日本各地の空気を吸いながら単車をり景色を感じ世界に我が身を開いた賜物たまもの、その心の足跡あしあとを再び辿れば、単車であろうとなかろうと、もう世界への扉は開かれているのと同じ。

 出掛ける間際のラジオから「雨のあがった今朝がたは三月並みの肌寒さ、羽織るものをお忘れなきよう…」と聞こえてきた。雨のあがった青空に虹は架からずとも、朝の寒さが心地よい季節。世の中の埃のおちた朝の風、湿気を含み、ほどけ損なった寒さが頬をかすめ往く。どこか懐かしい。これから街が目を覚ます時間、懐かしさの記憶を手繰たぐりながら足は前へと進み、都会を歩き続ければいつの間にか周りはビルの藪の中。

 そうして身を投げ込んだ藪の中、大木ともつかぬビルの間から寒さほどけぬ山颪やまおろしと見紛うような風を受け、記憶の中から掘り起こされた懐かしさは、早春へ季節を巻き戻した過去の旅、二度ふたたび三度みたびと雪の回廊をい真っ白な景色を走り抜けた、あれはいずれも五月のこと。

 今はまだ四月、ビルの稜線を仰ぎ見ながら記憶を舞い上がらせる風を掻き分け掻き分け十字路に差し掛かれば、真っ直ぐ続く道路の向こうから、朝は陽射しを寄越しつつ、つい今しがたまでほどけ損なっていた寒さはけ、向かい風はとうとう春の匂いへ変わってしまった。早春三月を思わせる芽吹きの予感と寒さの余韻を含んだ懐かしい風は泡沫うたかたと消え、寒さと暖かさのあわいを惑うていたとばかりみえた春は、寒さの上から桜色の衣を掛けたよう。

 春の衣の掛かった藪の中、周りの景色は幾分明るくも見えて、人の往来のある目抜き通りに突き当たったところ、既に店を開けている喫茶のひとつふたつと在る。柔らかな朝日射す店にはまだゆったりとした動きの店員と、既に自らの席と定めた場所へ収まり新聞を眺める人が見え、私は身を投げ込んだ藪の中から遂に街へと転がり出た。

 見知らぬ土地を見知らぬまま彼方此方あちこち迷い歩いた果て、人心地のする場所へ出て見渡すと暖かな春の衣は街の色合いに馴染んだ。振り返ると、つい先程まで歩いた藪の中、地続きでありながら異世界を彷徨うていた様にさえ感ずる。

 深く息を吸い込み気がつけば桜色の香る朝。そこへ珈琲の匂いの仄かに混じっている。


さて、朝のひととき、ちょっとした旅気分をお届けできましたでしょうか。

(1312字)


ピリカさん、お誘いありがとうございます。


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