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ハマった

 気になることがあると調べてしまうのであるが、久しぶりに本腰を入れて調べたいものが出てきてしまった。そのわりに思考の焦点があまり定まっていないままである。えらいことである。

 寄せ書きRADIOで教わったことから自分がもっていた疑問がどんどん発散していって、日本の歴史を学び直すことになってしまった。

 平家物語は、それまでの貴族社会から武士社会へ至った転換点を見届けたものがたりだと思っていたが、暫定的にそういう位置づけにおいたとして、じゃあどうやって武士が誕生したのかが気になる。彼らは臣籍降下から派生した、地域の"由緒ある"自治集団ということになるだろう。しかし当時、日本国の各々の地域を治めるために国司が置かれていたはずである。

 武士を知るには、律令国家において班田収授法があったのに三世一身法とそれに続く墾田永年私財法が運用され荘園が発生するに至るものごとの動きがポイントになりそうである。日本史の教科書にさらっとは書いてあってそれはいくつもの説があるなかの確からしい事実だと思うけれども、国家として律令体制がぼろぼろになっていく様を放っておいた理由がよくわからない。


 冷静に見ると、日本が律令体制を敷いたにも関わらず、実質的に天皇家と藤原氏によって支配されてきた原因はそもそも「日本における律令体制の導入がどのようなものであったのか」にあるように思った。

 そうなると、日本の律令体制の成立・運用にあたって、それまでどのような価値観で日本(大和朝廷)が動いていて、何を理由として政権交代や統治体制の変更が為されたのかを知るのがよい。

 そこまで考えたら、平家物語に至る貴族の思考回路やそれをとりまく武士のふるまいを知るために、飛鳥時代まで遡らなければならなくなった。

えらいことである。

 そこから蘇我馬子をはじめとする重要人物の振舞いと歴史イベントの流れを紐といていくことで、驚いたことに藤原定家が百人一首の最初に、天智天皇を据えた理由がわかる気がした。一般向けの本を何冊か読んでいるうちに「あ、そうか」と思ったのである。

 蘇我入鹿、中臣鎌足、天智天皇、天武天皇、持統天皇、藤原不比等、そういった「最初の定期テストで選択肢から答えたら、もう縁のない歴史上の人物」がそれぞれの意志を持って動き出すような気がした。

 知っている人からしたら当たり前のことでも、知らない者にとっては新しい驚きがあるのだね。あるのだよ。


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