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いま積読から脱出しそうなものたち


頭の整理をするのによい。考え方のアプローチについても確認できる。仏教を論じるもののなかには一定の割合で「量子力学」めいたものを引いてその立ち位置を正当化するような記述が見られるが、日本ではそうしなければならないほど仏教のイメージが悪いのだろう。昔からのものであっても、近視眼的な"経済合理性"からはずれたものに価値がないとされるのは、新しいものこそ素晴らしいというある種の偏見があるからではないか。


「ちょっとくらいええやないか」と自分の直感でものごとを判断しようとする、まさにその感覚が何の上に成り立っているのかを教えてくれる本。土着とはこういうことをいうのかな、とも思う。感情から一定の距離をおいて言葉を丁寧に扱おうとする姿勢は科学的でもあって、著者の立ち位置を信頼あるものとしている。この本を読み返すと山本七平の本に手が伸びる。


読みかけ。いくつも提示される藤原家の系図を見ていると、歌集で見かけた名前を見つけることができる。それ以外にもたくさんの藤原さんがいて、当時生きていた人たちの複雑な人間関係が想像される。系図に出てくる名前の周りにもたくさんの人が行き交っていたのだな、と思うと平安時代の日記文学の描写も、ちがった思いで見ることができそうだ。



読みかけ。少しずつ読んでいる。長編というのは読み続けるのにある程度の気力が必要になる。気力とは、その世界観になじみ潜っていく肺活量のようなもの。日本語で書かれたものさえ十分に理解していないし読んでもないのに、二次的な言語で提供される話など理解できるはずがない。そう思い込んで外国文学を遠ざけていたわたしはちょっとしたきっかけから「罪と罰」を読んで、えげつないな、と思った。その頃わたしはすでに暇さえあればバイクで走る大人になってしまっていた。


読みかけ。書店には参考書がたくさん並んでいるが、それぞれの書籍が言いたいことはほとんど同じであって、にも関わらず若者をわざわざ迷わせるのは、中途半端な大人たちが悪いのである。そのなかでもまずこれを読めばよい、と言いたくなる。これを勧めたいのは自分が一度古文の勉強を通過した事実によるのかもしれない。現代文もそうだが、読むという行為にはそのための技術や背景理解を伴う。何の背景もなく結論だけ詰め込み続けるキャパシティがある人にこの本は要らない。


読みかけ。もうこれでええのやないか。小西甚一もそうだが、この本もまた十分に多角的な見方がされており、ここに書かれていることを基礎知識として持っておけば、自分の興味をもったものへの理解はかなり速くなりそうだ。こういう本を手にとると、著者だけでなくその周りにいる編集者も相当の見識があるに違いない、と思う。頭がくらくらする本に久しぶりに遇った。これは遠いむかしに読んだ立花隆の「精神と物質」の興奮と同質のものだ。


読みかけ。どうにもいけない。密度の濃い短編を読むだけで、そのひきだしの多彩さを隠そうとしない書きっぷりに感嘆を通り越して呆れてしまう。しばらく濃密な時間を過ごしてまた、もうこれでええのやないか、と思う。次からつぎへと繰り出される短編を読むにつれてその実感が強くなる。


読みかけ。色川武大の書く文章はいつも、郷愁に通じるこころの入口をひらく感じがする。波瀾万丈の人生を送ったひとが誰にきかせたいわけでもない独りがたりを続けていて、いつのまにかそこに引き込まれている。そういう雰囲気がある。最初こそものめずらしさが勝っているのだけれども、気づけばそこに普遍的な魅力を発見していて、それがなぜだかわからない。



ヘッダー画像にあるしおりは、縦スク文庫のものです。


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