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興福寺でのメモ わたしの感じた「人生」について


何年か前、東京の上野に阿修羅像が来て、博物館に展示されたことがあった。わたしはその企画展を見に行ったけれど、阿修羅像は本来の姿から離れて、よそ行きの雰囲気をまとっているように思った。少年らしさがべったりと表に出て、慣れない場所で居心地がよくなさそうだと思った。

その見え方が腑に落ちなくて、しばらくしてからわたしは興福寺へ行ったのであった。

わたしはいつも勝手な言い分を作って外へ出るのである。

その時のメモ。


*   *   *


十大弟子。
八部衆。
四天王。
あるいは十二神将。


それぞれの物語をもって
紆余曲折の末、仏の教えに帰依する。
あの像は、こちらの人物は、……。
それぞれの背景には豊かな物語を湛えていて
お寺ではその物語を聞くことができるのだろう。

そうして、そのなかにはきっと、
自分に似た物語を持ったキャラクターが、いる。

それはつまり、
すべての人を救済するという
仏教のストーリーに合致するものじゃないだろうか。


悉有仏性。
異形のものが仏弟子であるということは
「……であれば、私も仏弟子であってもよいはずだ」
という気を起こさせるに十分ではないか。

建物のなか、様々な像を目線でたどって
阿修羅像に目を止めたとき、そう思った。


八部衆のなかで、
一番特徴的なのが阿修羅ではあるけれども
数ある像のなかで
阿修羅が一番目立つかというと、
そうでもないように思った。

そういう意味では、
阿修羅像を持ち上げすぎなのではないか
とさえ思える。


ここに並ぶいくつもの仏像は
阿修羅像に限らず何世代にもわたって
ずっと人に見られ続けてきたのだ。
その数えきれない視線を受け止めて、
あるいは受け流して
いま、目の前にある。


ふと心に浮かんだ。


人生とは
自分が「時間の流れ」
という大きな物語の一部だと気づくこと、
その物語を自分が受け入れること
なのではないだろうか。

それを理解するための解説書が
いわゆる宗教である
と思えてくる。

素直な理解をするには
それなりに高い視点から観ることが必要で、
経験、知識がその手助けをするのだろう。
素直な理解とは、言い換えると、
ぶれない強さのように思える。

仏典や聖書に
いろいろな登場人物があって
言葉を尽くして教化啓蒙しようとするのは、
そういうことなのではないだろうか。


仏典や聖書というものは、

本当のぶれない強さが自分のなかにあるんだぞ

と、自らが気づくための
ガイドブックなのではないだろうか。

その強さは、
お金を出したから
対価として手に入るものでもなく
際限なく祈り続けて
得られるものでもなく
世の中を穢す悪者を懲らしめて
辿り着くものでもなく
他人に流布して無邪気に崇めて
雰囲気に浸るのでもなく
ただ、
自分との静かな対話が
きっかけになるのではないか。

そして、
ガイドブックなしでも
そこに至る人はいるだろう。


今回、仏像が
東京の博物館で現代的な演出のもと
「美術品」として展示されるのではなくて
それぞれのあるべき
宗教的空間に佇んでいたから
気づけたように思う。