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バイク乗りの考えること わたしの場合

あとから振り返ると
方々を走り回ったのには理由がある。

そういう後付けの理由だって、立派に話として成り立つ。
ひとという生き物は、
そうやって自分にとって都合のいい物語を仕立てて
過去を正当化するのである。


わたしが走ってきたのはなぜか。

自分が今生きている場所が
いいところだと確かめたかったのだ。

美しいものに触れて、ただ
ああ、そうだな、美しいな、と思いたい。

季節が過ぎる少しの変化を感じ
その移ろいに気づきたい。


自分の感覚が
美しいものをそのままと捉えられることを確かめたい。
それを、走っている今、走っているここで。

そういう瞬間を繋いでいきたいと思っていた。



私の生きている世界は美しいのだ
という勝手な土台に立って
その証拠集めをするために走り続けていたのだ。

そうやって新しい気づきを
探して見つけて安心することで
自分が置いた前提は正しかったのだ、
と肯定したかった。

いくつかの景色が
はっきりと像を結んでいる。


その景色にたどり着くまで
これだけの時間と
これだけの距離と
これだけの速さが
必要だったのだ。


走っていく先は宵闇。
ミラーに映る夕焼け。
その時間のあいだを走っていた。


何百キロも走りつづけて
疲れのなかから顔を出す
ギラギラとした形のない命の執着を見つめ
自分とバイクと地面との境目がなくなるような
世界と自分が融け合うような
音の消えた鮮やかな景色を体験するような
このうえない時間。


この感覚は、
世界が美しいということと
どうつながっているのだろう。


理屈はわからない。
けれども私にとって世界は美しいのだ。