草間彌生 というのを体験した


松本市美術館へ行ってきた。
わたしは静岡県立美術館へ行けなかったのであった。静岡県立美術館に行けず松本市美術館に行ったのは「みんなのミュシャ」展が目的だったのに、草間彌生に頭を吹っ飛ばされたのであった。


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草間彌生という人は松本出身であって、松本市美術館の外観がすでに草間ワールドである。そういえば松本市内を走るバスも、真っ赤なドット柄であってエキセントリックであった。


松本市美術館の2階に草間彌生の特集展示がある。

https://matsumoto-artmuse.jp/exhibition/permanent/12555/

この展示でこれまでにない気持ちにさせられた。作品の強烈な引力で、こちらの意識を持っていかれる感じ。
めちゃくちゃにでかいかぼちゃ、それも彩度の極端な対比をした毒々しいかぼちゃ。
生命という概念を具現化した展示。

「愛はとこしえ」という大きな50枚の作品を並べた空間には圧倒された。

1枚1枚の作品が、たたみ一畳ほどかと思う大きさで、大きな展示室のなか、縦横に敷き詰められ、そこには単純な模様の繰り返し、際限なく描き込んだいくつかの図形の組み合わせ、空間恐怖を思い起こさせるような詰め込みようであった。これが展示室いっぱいに敷き詰められ、それと対峙させられる、のであった。

展示室に入った瞬間思ったのはまさに
「対峙させられる」
ということであって、みていくうちにほんもののエロ・グロ・ナンセンスとはこういうものなんじゃないか、と、作品そのものと向き合わなければ出てこない感想があたまに浮かんできた。

何のために生きるのか、という小理屈を一蹴するような生命の蠢動、それを見たら、ただ呆気にとられるようないちばん単純な生命のエネルギー、生きるにあたってもっとも原始的な感覚を突きつけられるようななんとも野卑な、新鮮な、単純であるからこそ尊い、単純すぎてばかばかしい、そういう感覚が心に渦巻いていた。

息の詰まる部屋であって、こういうのは一言で言えば「なんだこれは」でもあって、たとえば岡本太郎の作品をみたときにもそういう日本語を使うのだけれど、岡本太郎の作品は、草間彌生のものよりずっとずっと観念的であって、人が「造った」ものである。

草間彌生の作品のほうが、岡本太郎のものよりもっと肉感的で、しかし官能的というのは全くちがう、剥き出しの生命を感じさせる。人間以前にとどまらない、動物以前というのともちがう、たとえば顕微鏡を覗いたときに見える、それぞれの細胞の動きを認めたときに「何だこれ」と思う感覚に近い。

普通であればそこには「生命のからくりの不思議」を感じて、当たり障りのない言葉で表現すると「生命の神秘」ということにでもなるのだろうけれど、草間彌生の作品は神秘ではない。同じものに、執着が混ざり込んでいる。


最初の作品を目の前にしたときにわたしは
反射的に「えげつないな」と感じた。


これは「生命を表現すること」に対する執着かと思ったけれどたぶん違っていて、「表現する」という行動そのものへの執着なんだろう。表現し続けて、走り続けなければならない、という内なる声を御するために、実際に手を動かして表現する、それを実際にし続けるという、行動そのものへの執着。

だから、作品そのものを見ても
「何のために」
というメッセージは聞こえてこない(人それぞれだから、別に聞こえたっていいのだけれど)。

岡本太郎の作品は「座るのを拒否する椅子」にだってそれなりの理屈がある。彼の「なんだこれは」は彼なりに説明可能な、理性の手の内にある言葉なのであった。

草間彌生の作品は理屈が成り立つ手前、人間の手垢がつく前の「なんだか得体の知れない生命のうごめき」のような気がする。女性だからこそできる「えげつない」表現だという気もした。