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ヒトラーを生まないためには週刊誌が必要〜個人的な乙武に対する恨み〜

 


少年時代のトラウマ
まだ障碍者を知らなかった時

私が小学生の時の事である。
学校の行事で、手話の演芸をやったり、障碍者施設を見学するという行事がよくあった。そのため、クラスの右後ろの本棚には当時大人気であったハリーポッターやデルトラクエストがどこにでもあるように、障害に関する本は必ず数冊おいてあった。そして障害に関する本の中では、五体不満足(乙武洋匡 著)は一番有名な本であり、小学校の中だけでなく、当時のベストセラーであった。

障碍者は生きるのに大変であるから優しくするのは当然の事だった。当時は24時間テレビを偽善だという批判はまだなかったのだ。そればかりではなく、障害者を健常者と”同等”に扱うのは弱い者を見殺しにするようなもので、腫れ物に触るように丁寧に扱わない人は最悪な人間だと思われていた。

一方で私は、放課後にことばの教室という言語障害のある子どもが通う授業を受けていた。私自身の障害はタ行の発音が下手くそ等の、半年程度通えば治る程度の軽い症状であったが、そこで出会った人の中には重い障害を持っている人もいた。彼らは障害はあるものの、目が凄く悪かったり、移動するのに時間がかかるだけで、至って私と違わない普通の人間だと感じていた。私の頭の中には健常者や障碍者という区別はなく、ただ一人の人間と接しているだけだった。まさしく、私は乙武と同じように障害を単なる個性としか考えていなかった。

そんな状況だったので、本好きの私が五体不満足を手に取るのは、自然な事であった。

五体不満足を初めて読んだ感想は、この本嘘くさい、乙武とは友達にはなりたくないであった。

乙武のエピソードは過度に美化されたものが多く、普通の感覚からすれば嘘っぽいものが多いと感じた。例えばこんなところである。

1.終始筆者は現実にいたらうざいほどポジティブで、負の感情の描写が少ない。

2.自分が障碍者である事の控え目さがない、配慮されて当然だと考えている。
・本の中でサッカーに参加しようとするエピソードがある。また、中学ではバスケットボール部、大学ではアメフト部に所属。
例えば、プレイするメンバーが自分以外全員サッカー部だったら、一緒にサッカーをしようとは思わないだろう。周りとの実力差に配慮して、団体競技には参加しないよう遠慮すると思うのだが、そういった描写がない。
・本の中の話ではないが、レストランに訪問した際、障碍者でも連絡なしが普通だと考えて店を名指しで批判している。このように彼は障碍者が助けられるのは当たり前という考え方がどこかにあり、周りが迷惑を受けている描写、手助けを受けている描写、それに対する感謝の描写があまりない。

3.医者は五体不満足の赤ちゃんを親に見せる時に、卒倒するのではないかという風に恐る恐る見せたのだが、初めて見た感想が可愛いであり、手足がない事は驚かなかった。
→これについては乙武は自分の勘違いだったと謝罪している。おくるみに包まれていたため、赤ん坊の手足については見えなかったらしく、その後はやっぱり驚いたらしい。

読んだのはずいぶん昔なのでうろ覚えだが、違和感を感じるのはこういったところだったような気がする。別に話を盛ったり、一部の極端なエピソードだけを切り出して、理想的な人物像を描くのは悪い事ではない、むしろ積極的にやり、分かりやすい内容にしたからこそ、これほど多くの人に読まれたのであろう。

しかしながら、当時の私は小学生、大人が言う事や本の内容は全て真実だと思っていたし、この本のここがだめだと、表現する能力はなかった。しかし、本に対して漠然とした不信感を感じていたのは確かである。

ある時、先生が乙武についての話をする機会があった。詳しく覚えてないが、確か乙武のように優れた人間になりなさいという内容だった。私はそれに対して、乙武は性格があまりよくないから、友達になるのは難しいと返した。その結果、クラスの女子と女性の先生から大バッシングを受けた。(何故か男子からは受けなかった)


実際に会ったことも、話したこともないくせに

この本を読んだ事もないくせに、障碍者の友達もいないくせに

他人を美化して、知った気になって、
自分と違う意見に対して、全力で否定する。

とても気持ち悪いと感じるとともに、他人とは分かり合えないという孤独感を感じた。


私が女性に対して漠然とした忌避感を抱くようになったのはこの時からだろろうか。

私は今まで他人に対しては、性別や年齢、障害の有無など関係なく、全て平等に接すればよいと感じていた。

もちろん、年上には敬語を使うし、女子に対してはスカートめくりをしたり、男子に対してのようにむやみに体に触ってはいけない等の配慮は当然していた。

しかしながらこの時から、人間には性別や年齢、体力の差というものがあり、特に女性については特別扱いをしなければならないという、差別が私の中に生まれた。

人間には個性で片付けられるような簡単な事情だけでなく、障害と呼ばれるものがあるため、差別して接しなければならないという事を意識する事になった。







そして 10年以上時は流れ、2016年に週刊新潮は乙武洋匡が女性5人と不倫関係にあった事を報じた。







やっぱり性格悪いじゃねーか!!!



お前散々聖人ぶってたくせに、不倫してんじゃねえか。しかもただの不倫じゃなくて、5人と不倫って昭和の政治家かよ。平日毎日違う人と不倫できるじゃねえか。逆に尊敬するわ。しかも既に3~4年続けていて妻公認ってなんだよ。知っていてわざわざ見逃さなければならない妻の気持ち考えたことある?しかもいっちゃなんだけど、ただの妻じゃなくて、障碍者の妻だよ?自分でできない事が普通の人より全然少なくて、自分の世話を散々妻に任せておきながら、自分はやりたい事やりまくるってどういうつもり?しかも子供が3人いるわけだろ。一般人の子供ならともかく、有名人の子供となると、子供自身とその周りの友達とかが知るわけだろ。小さいころから親父が不倫した事知らされるって、相当なストレスだよ。学校で友達から必ず言われるだろうな。しかも職業が教師なのによくしたよね?教え子と仕事失う覚悟もってしてたの?しかもそれが理由で、出馬しようと色々と準備してた政治団体も被害受けたよね?多くの自分の周りを傷つける事が分かり切っているのによく3年も継続して続けようと思ったよね!!!



ついつい熱くなってしまった。

とにかく、この記事は当時、広く取り上げられ、今まで日本人が持っていた、障碍者像は大きく変わった。今まで日本人が持っていた障碍者は聖人であるという幻想が崩れ去り、障碍者もただの人間であり、不倫もするし、性格も普通だという事に気がついたのである。

障碍者=聖人 の幻想は何故できたのか

今まで障碍者は弱者であり、懸命に生きているため報いれなければならない存在であり、健常者が気にかけなければならない存在であった。それには、助けられる側は聖人でなければならないという一種の健常者による願いが含まれていた。

世界は不条理で不平等だが、本当は平等であってほしいという願いは誰しもがもっている。自分の手足が不慮の事故でなくなった際に、誰からも救いの手が差し伸べられない事は想像したくない。弱者を助けるのは倫理的な理由だけでなく、自分が弱者になる不安から逃れるためでもある。

一方で弱者を見捨てたら良心が痛む場合もあれば、虐げても良心が痛まない場合もある。嫌いな相手が事故にあえば、ざまあみろと思うし、運だけで大成功している人間が、悪事を働いて地に落ちるのを見るのは気持ちがいい。

嫌いな相手には、親切をできる限りしたくないというのが、人情というものであるが、日本国にいて税金を納める以上、否応なしに障碍者に我々の血税が使われる。障碍者の中には、良いやつもいれば、施しが受けられて当然と思っている性根が腐っているやつもいるが、ふるさと納税のように、助けたい障碍者だけを取り出して、支援する事はできない。

そのため、視聴者を不快にさせないために、メディアは性格の良い障碍者しか報道しない。基本的に視聴者は実際の目で障碍者を見る事がないが、メディアは良い障碍者しか映さないため、そのイメージに徐々に引きずられ、障碍者は性格が良い人が多いと錯覚する。

かくして、不本意な相手に必死に働いた自分のお金が使われているという不快感から逃れるために、障碍者は全員聖人という虚像を持つに至った。

これは会社の経営者、アイドル、成功者等が聖人でなければならない理由と同じである。自分が必死に働いて得た、お金が嫌いな経営者の肥やしになっているとは思いたくないし、自分より幸せな成功者はせめて自分より他人思いだと、考えたいものだ。

しかしながら、週刊誌はその幻想を壊す。スポンサーと視聴者の為にテレビが提供した夢は、いつか覚めなければならない。

アラフォーのおっさんのダンスを全国の会場で見るために、女子大生の青春がバイトに消えるのをやめさせなければならない。

大した化粧品じゃないのに、タレントのイメージを使ってさも価値があるかのように錯覚させるのをやめさせなければならない。

優秀だと思う理由が、小泉構文によるものだと気づかなければならない。

人には地球温暖化を止めるための節電を呼びかけるアメリカの元副大統領は、自宅の豪邸では月30万円の電気代を使用している事は、明らかにすべきだ。

その人が幻想に酔う事を望んでいたとしても、いつかは覚める。
押しに費やした時間と金は戻ってこない。

現在なら、週刊誌等が横やりを入れて、夢を覚ませてくれるが、アドルフ・ヒトラーが活躍した時代はそうではなかった。

障碍者が聖人になるのも、ユダヤ人が悪人になるのも根本は同じ構造 

ヒトラーは支持率を上げるために、メディアを積極的に利用した。新しく出始めた、映画や、テレビ中継などを積極的に利用し、国民を熱狂の渦に巻き込んだ。当時は、現在ほど発達していなかったので、管理下に置くのは容易だった。

メディアをコントロール下に置く事で、ナチスは、ユダヤ人は悪だという幻想を国民に植え付ける事に成功した。経済がうまくいかない責任を、ユダヤ人に擦り付けることに成功した。ユダヤ人にも金融業を行い、それに貢献した人も、しなかった人もいる。しかしながら、ユダヤ人は全員悪であり、虐殺が正当化されるという思い込みを作るのに成功した。

この方法は障碍者が聖人になった理由と同じである。

よく週刊誌に対しては、有名人の私生活を暴いてなんになるという批判が寄せられるが、その私生活を暴き、ただの人間に戻す事が重要なのである。

それによって、押し活に励んでいるオタクの目が醒めるかもしれないし、投票していたのが、無能な政治家だと気づくかもしれない。

かくゆう乙武もメディアに踊らされた被害者の一人なのである。五体不満足によってつくられた世間とのイメージとのギャップに苦しんでいたと口述している。彼を責める事はできない。根本的な問題はメディアと幻想にすがりたいと思う我々の心の弱さにあるのだ。







でもメディアが作った良いイメージのおかげもあり、アソコ満足できたのだから実はOKと思ってるかもしれない。




P.S  2024/4/15 追記
最近の彼の発言を見ると信念を持って演じているというよりもただの倫理観のないやつとしか思えなくなってきた。

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