井の中のカワズ、ナイモノネダリを思考する

生きるのか活きるのか?
死ぬのか為ぬのか?
誰も他人になれない。


どこかに生きたい人がいて、一生懸命頑張ったとする。しかし、生きる希望は叶わず残念な結果になったと惜しまれた時によく見かけるのが、『生きたくても生きられない人がいるのに、自殺とか腹立つ(風な意味の文言)』
こういうのを見かけると、なんで一緒にするんだろう?と、カワズは疑問に思う。

人として生まれた限り、人生というものが一人一人ある。

一人一人だ。

病に勝った人。
病に負けた人。
環境に勝った人。
環境に負けた人。
自分に勝った人。
自分に負けた人。
誰かに殺された人。
誰かに生かされた人。

この中の命の重さに差はあるだろうか?

殺されれば哀れで自分で死んでも哀れ、病で死んでももちろん哀れだ。

なのになぜ他人の寿命と他人の死の迎え方を比較するのか?

生きている人。
活きている人。
死ぬ人。
為ぬ人。

生きている人と為ぬ人は似ているように感じる。

為さぬ人は無為に生きてらっしゃる。(まぁ、何かは為してらっしゃるでしょう。見えないだけで)


病に敗けると仕方ないが、別の何かに敗けて自死を選ぶのはダメという概念は、宗教的な何かなのかもしれない。

でもさ、病以外の何かに敗けて自死を選ぼうとする側からすればさ、病だろうが事故だろうが事件だろうが、誰かから命を惜しんで貰える人生って羨ましくて羨ましくて仕方ないんだよ。

元々死にたいなんて考えるような人生になるなんて想像もしてなかったよね。

惜しまれる命に変われるなら、変わってあげたいくらい生きてるだけで地獄。

惜しまれる人生と惜しまれない人生、交換できるとしたらしますか?

もちろん、元の貴方のままではなく、惜しまれない誰かになります。

命だけ体だけください?

あげれるもんならあげたいですよ。
『持ってけドロボー』?
いえいえ、
『惜しまれないワタクシの命で、アナタサマの命が助かるのでしたら喜んでサシアゲマスヨ』
その代わり、アナタサマは確実に人生に勝利して、命を差し上げたワタクシに感謝感激、死ぬまで署名には(命を差し上げたワタクシの名前)を追加してくださいね!

命を差し上げた場合、差し上げた人間の名前が命を貰った側の名前にくっつくなんていかがでしょう?

それだけで自死を選択するような惜しまれない人間がアナタサマの命を救います。

そんな法律ができるといいですね。

そしたら、せめて合法的に誰かの役に立って死ねるのに。

最後に活きて死ぬことすら許されない人間がいるんです。

生きられない人がいるんだから、死ぬ気で頑張れ?
いや、死んだ方が楽ですよね?

そもそも比べるのがおかしくない?
お互いにないものをねだってるんだから。

井の中のくだらない話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?