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恋愛と自殺は似ている

恋愛と自殺は似ている。

それは別に「死にたくなるほど愛している」とかそういう意味ではなくて、私にとって恋愛と自殺は両方とも定められた運命の上に存在しているものという意味だ。

どれだけ前向きに生きることを考えても、どれだけ今が幸せでも、「私は40歳になったら自殺する」という気持ちは無くならなかった。
前までは「私は不幸だから死にたくなるんだ」「孤独だから死にたくなるんだ」と思っていた。しかしそれは勘違いだった。そもそも私の人生は自殺の為に存在しているのだ。

どれだけお金持ちになっても、どれだけ世界中の人から愛されようとも、私は自殺する事を考えないで生きていくことはできない。
私は自殺によってこの命を終わらせるために生まれてきたのだから。

幸せになれば自殺なんて考えなくなる。

幸せになれる事で自殺という概念を頭から消すことが出来る人は、本来自殺とは無縁の運命だったのだ。なにかの拍子で運命の中に自殺が入り込んでしまっただけで、それは異物である。
私は自殺をするためにこの世に生まれてきたから、どれだけ幸せに生きようが自殺という運命から逃れる事はできない。私にとって自殺とは異物ではなく人生そのものなのだ。

補足だが、別に今の私は自殺に対してネガティブな感情は抱いていない。どちらかと言えば、「自殺」という明確な人生の終わりを設ける事により、それに向けて人生設計が出来るし、効率的に自分磨きができる。また、自分の思う理想的な死に場所を自ら作る事が出来る為、「死ぬ時は周りに沢山花を撒こう」だなんて想像するだけでとても幸せな気持ちになる。自分の死に際を美しく飾れる人間なんてそう居ない。

話を戻そう。
ではなぜ、恋愛と自殺が似ているのか。

「何となく好き」がまかり通る10代前半、私は色々な人に告白してはフラれてきた。周りは「何となく好き」で告白して誰かと付き合う。私だけが上手くいかない。
今振り返ると「何となく好き」同士で付き合えるのは、最低限の容姿を持っているからだ。私にはその最低限の容姿を兼ね備えて居ないから、付き合えなかったのは当たり前だ。
反省を活かして、外面も内面も磨いた。それでも恋人はできなかった。
『別に最初は好きではなかったけど「この人となら付き合ってもいいかも」って思う人から告白されたから付き合った』
という話をよく聞く。私はその「この人となら付き合える」と思うような人から告白されない。

普通の人に当てはまる恋愛事情が私には全く当てはまらない。それに苦しさを感じていた。どれだけ努力しても、私は一生好きだと思える人から好きになってもらえることは無い。

ある日カウンセリングで恋愛のことについて相談をしていた。

「素敵だなと思う相手は私よりも優れた人だから、素敵だなと思う時点で自分とは釣り合わないと思ってしまう。だから私は恋愛ができない。」「その考えに対する根拠と反論を考えてみましょうか」「今まで、好きになった人に好きと言われたことが無い。それが根拠。反論…。どれだけ私が努力しようが、そもそも私という人間は恋愛が出来ない運命の元に生まれてきている。だから私の努力や私という人間の善し悪しと恋愛は一切関係ない。それが反論です。」

何となく思いついた反論ではあったが、それを口に出した時、その表現がとてもしっくり来た。
恋愛が出来ない理由を他人や自分の中に探して来たが、それ自体が間違いだったのかもしれない。
私が自殺するために生を受けたのと同じように、そもそも私という人間は恋愛とは無縁の運命の元に生まれてきたのかもしれない。

勿論、「運命に私は抗う!」と言って、死ぬ気で努力したらもしかしたら恋愛が出来るかもしれない。でもそれすら運命で決まっている事なのだ。
私が努力で恋愛を手に入れられるような運命の元に生まれて来ているのなら、きっとこのまま時の流れに身をまかせて生きていれば自然と努力をする事になるだろうし、自然と恋愛が出来るであろう。でも体感、23年生きてきた今、私の運命は恋愛とは無縁だと思われる。

自分の希死念慮に「運命」という形で折り合いをつけたように、恋愛においても「運命」でそう定められていたと思うと、心が軽くなるというか、それで苦しむ必要は全くなかった事に気がついた。

恋愛と自殺は似ていると私が述べた理由は以上の事からだ。
これは大抵の人間、というか私以外には当てはまらない法則だろう。それもそうだ。私といういう人間は他人とズレている。自殺するために生まれてきた人間なんてそう居ない。

私のことを理解出来る人間が居ないというのは、こういう運命の元に生まれてきた人が居ないからだ。そんなに居てたまるもんか。こんな理不尽な運命の元に生まれてきたら、よっぽど精神を鍛えない限りは途中で狂ってしまう。私も実際3年くらい狂っていた。

私は論理的に物事を考えられる人間だったからこそ、こうやって自分の運命と向き合うことが出来ているが、並大抵の努力では過去の自分みたいに希死念慮の波に呑まれてもがき苦しむだけだ。

「それが私の運命だから」それは一種の「だから仕方ない」という諦めや逃げでもあるだろう。
しかし、「運命だから」と思うと、全ての苦しさから解放される。その定められた運命の中でどうやって自分のために時間を使ってあげるかが大切だ。
苦しむことはもう疲れてしまった。自分を愛して生きるためには、この定められた運命を受け入れて生きていくしかない。

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