脚本『現代賛歌』

現代讃歌
 

前田
佐竹
前田父 以降、父と書く 母でも可
前田兄 兄と書く 姉でも可

前田「男は子供心を忘れず、子供心はカブトムシに捉えられて仕方ないという。あの、黒く輝き、そう漆黒、如何な攻撃にも耐え得そうなボディ。その至高とも思われる盾とは対照的に、強く天を穿ち、その存在を主張する、カブトムシのカブトムシたる所以。その角は最強の矛となろう。どこかの国の誰かさんが、何にも貫けぬ盾と、何をも貫く矛とを勝負させたならば、どうなるのかなどと悩んでいたそうだ。私にも、その問いに対する解答は、皆目見当が付かない。しかし、そのような些末な知識はどうでもいいのだ。それはひとえに、私が、一つの揺るぎない、純然たる、この世の真理とも取れる知を得ているからである。私曰く「最強の矛と最強の盾を持つカブトムシって、最強じゃね?」と。まぁ、長々と、カブトムシに対する情熱を垂れ流してみたところで、私は大して虫が好きなわけでも無い。ただ、私の中の子供心が、のち、厨二病の核となるその心が、カブトムシに興奮して止まないのだ。そう、カブトムシは、いつも私たちの心の中にいるのだよ。だのに、カブトムシと同様に黒光し、その脚力は脚光を浴びるに足るものであるにもかかわらず、私たち現代人に、もしくは太古より人類種に拒絶と殺意でもって接される哀しき生物。カブトムシとはまた別の意味で、私たちの心の中にかさかさと住まうもの。そんなやつが、あの悪魔の使いが、今まさに、私の顔へ向かって飛びかかってきている。ぎゃあああああああ。」

倒れる。

前田「何か強い衝撃。ああ、走馬灯。在りし日の情景が、浮かんでは消え、浮かんでは消え、を繰り返す。ゆく川の流れは。まず初めに現れたのは一番最初の記憶。私の覚えてるものの中で最も古く、最もあせず。いつも強く強く心の中にあった、それは夕焼けの記憶。季節も何もわからない。父と二人で歩く、ただただ真っ赤だった路。」
 
父、来る。
 
前田「ねえ、赤い。」
父「ああ、赤い。」
前田「熱い?」
父「いや、熱くない。」
前田「熱くない。熱くない!」
父「面白いか?」
前田「赤いのに熱くない。」
父「赤いものだって全部が全部は熱くない。」
前田「ふーん。」
父「ほら、テントウムシとか。」
前田「触ったことない。」
父「そうだっけ。」
前田「うん。」
父「そっかそっか。」
前田「ねえ、振り向くと父は木になっていた。植物の木。正確には、父の形をした木が、一本赤い世界に生えていた。そんなはずはない。ありえない。遠い幼少期の思い出だ。きっと何かの記憶違いか、夢か幻覚を混同したか。しかし、私にはその木が、父の木が、紛うことなき現実で。赤い世界には、父以外、人がいなかった。父もすでに人ではない。全てが、赤かった。何もかも、昼間、あんなに色とりどりだった街が、今は赤に塗りつぶされた、その濃淡だけ。影は暗い赤。出っ張ってるとこは真っ赤。」
父「手のひらを太陽に。」
前田「手のひらを太陽に?」
父「手のひらを太陽に、透かして見れば。僕らはみんな生きている。」
前田「僕ら。」
父「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな。」
前田「生きている。」
父「父さんも。お前も。」
前田「木も?」
父「ああ、生きている。みんなみんな生きているんだ友達なんだ。」
前田「生きている。」
父「おんなじだ。手のひらを太陽に透かして見れば。」
前田「透かして見れば。」
父「真っ赤に流れる、僕の血潮。」
前田「赤い。手の後ろに見える背景と同じように赤い。目をすっと細めると、境界がぼやけて、手が、じんわりと背景に溶け出した。いろいろなところを、その細まった目で見た。堅いはずのコンクリートもブロック塀も溶け出した。父さんも溶け出した。暖かい。熱くはない。暖かい。赤は、目に、脳に焼き付いて、以降、なにかと思い出した。後になって、想った、その世界は血管の中だったのだと。血のように赤い。夕焼けだってそんな赤いことなどないと幾人に言われた。ありえないと言われた。だから、きっと、あれは血管の世界に入ってしまったのだ。血、と言えば。」
 
兄、来る。前田、兄、誕生日の歌を歌う。
 
前田「これは、たしか小学二年生の春。父の転勤で来た新しい土地、そこで初めての父の誕生日。」

前田・兄「ハッピーバースデイトゥーお父さん!おめでとう!」
父「(フーっとロウソクを消す)ありがとう。ばたばたしたけれど、誕生日までに一段落ついて安心したよ。」
兄「今年は祝えないかと思ったよ。」
父「お前たち、いろいろと、急ですまなかったな。」
兄「いいよ。誕生日なんだから、明るくさ。」
前田「ケーキ!」
父「食べようか。」
兄「あんま暴れんよ。」
前田「ケーキだ、ケーキだ!」

前田、ぐるぐる回る。

兄「ケガするよ。」
父「元気がいいな。」
兄「止めなよ。」

前田、頭をぶつけて血が出る。

兄「あ、血が!」
父「タオル!」
兄「救急車は!」
父「車出す!」
前田「おお、真っ赤だ。」
兄「大丈夫?痛くない?」
前田「うん。」
兄「タオル持ってき。」
父「頭抑えて。」
兄「はい。」
父「病院行くぞ。」
兄「うん。大丈夫?」
前田「全然平気。」

家族、はける。

前田「さっきまで朗らかだったのに、なんだか可笑しい。私のことなのに、家族の方が大変だ。病院への行きがけ、あの後何度も、傷は痛むか、意識は大丈夫か聞いてくる。頭から血が出ても、意外と平気なもんだ。ただ血がべっとり、頭に触れた手やらタオルやらについた。真っ赤な手を見ても、その血はなんだか他人のものみたいだ。病院で医療用ホッチキスを何発か打たれた。やっぱり痛くない。なんだか麻痺してた。私の覚えてる限り一番古い、頭から血が出た時の記憶。それ以来何度か頭を打って血を出した。ホッチキスを外す時は、少しずきりとした。生きてるんだ。」
 
蝉の声。
 
前田「小学五年生の夏。アスファルトの上。寝転がっていた。太陽の熱を吸収した地面は巨大なフライパンのようだ。じりじりと、体にしみいる熱になんとなく昨日食べた焼き鮭の気持ちが分かったきがした。上は太陽、下はフライパンだから、仰向けだろうと、うつ伏せだろうと暑い。両面こんがり焼けて、大変おいしくなってしまう。どうしよう。このまま焼きあがれば、きっと、どこからか巨人がやってきて、僕を昼のつまみに食べてしまうんだ。僕が鮭をぱくりとしたように。そんな風に熱でとろけた脳みそで、とろけたことを考えてたら、佐竹君がやってきた。佐竹君、腕の先までなまっじろい、気品の子。」

前田「熱い。」
佐竹「なんばしよるの?」
前田「焼かれてる。」
佐竹「焼かれてる?」
前田「うん。きっと私すごくおいしい。」
佐竹「おいしいの?」
前田「うん。佐竹君?」
佐竹「そうだよ。同じクラスだよ。」
前田「知ってる。」
佐竹「良かった。」
前田「佐竹君も焼かれる?」
佐竹「僕も?」
前田「うん。」
佐竹「わかった。」
前田「隣。」
佐竹「うん。」
 
佐竹、寝転ぶ。

佐竹「熱い。」
前田「ね。」
佐竹「楽しい?」
前田「わかんない。」
佐竹「そう。入道雲。」
前田「ほんとだ。」
佐竹「きれいな空。」
前田「うん。」
佐竹「これを見てたの?」
前田「ううん。焼かれてただけ。」
佐竹「そっか。」
前田「でも本当にきれい。気づかなかった。」
佐竹「空大きいね。」
前田「体が浮きそう。」
佐竹「浮くの?」
前田「浮かないよ。」
佐竹「浮かないのか。」
前田「ねえ、巨人が来て、僕たちを食べる?」
佐竹「何それ?」
前田「あの、一番おっきい入道雲が、がばっと起きて僕たちを食べる。モクモクの腕が伸びてきて、僕たちを掴んで、で、ふわふわに包まれて、僕たちは、入道の、口の中にひょいって。」
 
蝉の声が大きくなる。
 
前田「仰向けで見た青空は、限りなくて、どこまでも落ちていきそうで、怖くなったから、うつ伏せになった。アスファルトがごつごつと、目の前に迫った。しっかりと、そこにあった。どうしようもなく、動かしがたく、僕を支えた。膝に、手に、細かい石だとか、食い込む。痛いな、仰向けにしようかな。視線を、少し上げて、路の先を見た。キラキラと、黒い宝石の絨毯が、陽の光を浴びて輝いた。ゆらゆらと、陽炎が踊っていた。それはきっと。ねえ佐竹君、僕、考えたんだ、アスファルトの妖精が、アスファルトに妖精っているのかな。どうなんだろ。花に妖精がいて、雲に妖精がいて、風に、雨に、火に、木に。トイレに神さまがいるんだって。アスファルトに、コンクリートに、鉄棒に、ブランコに、滑り台に、砂場に、蛇口に、上履きに、妖精がいる。」
 
少しの間、蝉の声のみ。兄来る。

兄「おい、何ばしよるん。」
前田「焼かれてる。」
兄「焼かれとるって……そげんとこずっとおったら熱中症なるぞ。」
前田「それもそうだと思い、横を見れば佐竹君ヘロヘロとしてうつろな目。空の、遠くの、ずっと先の方を見てる。」
兄「そん子は?」
前田「佐竹君。」
兄「家入り、麦茶ば作っちゃる。」
前田「だって。うち来る?」
佐竹「う、うん、ありがと。」
 
兄と佐竹、はける。

前田「佐竹君、暑さにやられても、玄関で靴きちん踵と揃えて、気品の子だった。麦茶を飲む姿も、私と全然違う。白い細い腕で、麦茶のコップを柔らかく持って。こくり、こくり、のどを動かして。これが私の中にある、佐竹君と初めて喋った時の記憶。それ以来、佐竹君はよく私に話しかけてくるようになった。学年が上がって、クラスが同じで喜んだり、離れて、でも、よく休み時間に遊びに来たり、放課後、靴箱で出迎えてきたり。そのまま、小学校を卒業して、隣にある中学校に入学した。佐竹君も、同じ中学校。皆ずっと同じ顔触れで、きっと地元ってこういう事なんだ。」
 
前田「中学生二年生の秋、佐竹君に誕生会に誘われた。というより、毎年毎年御呼ばれしてる。彼の家、気品の家だから、すごくドキドキする。」

佐竹「誕生会来るでしょ?」
前田「いつ?」
佐竹「十月十日。毎年同じだよ。」
前田「面白くない。」
佐竹「面白くないったって仕方ないじゃん。」
前田「七月とかにやりなよ。七夕とかいいじゃん。」
佐竹「七夕は七夕であるから。」
前田「ちゃんとしてる。笹まで買って。あれ、お幾らだった?」
佐竹「わかんない。」
前田「そっか。」
佐竹「親が買うからさ。」
前田「うちは、クリスマスだってツリー物置の肥やしで、飾らないんだ。」
佐竹「もみの木は掃除が面倒なんだ。」
前田「うちのはプラスチックだから掃除要らない。」
佐竹「ねえ、来るよね?」
前田「うん。」
佐竹「伝えとく。」
前田「でも、君の家、緊張するんだ。」
佐竹「毎年あんなに寛いで?」
前田「それとこれとは違うんだ。」
佐竹「今年もターキー出すって。」
前田「本当!」
佐竹「うん。頼んどいた。」
前田「悪いなあ。」
佐竹「僕も食べたいし。」
前田「でもなあ。」
佐竹「十月十日だよ。忘れないでね。」
前田「あー、うん、ねえ、あそこ登ってみない?」
佐竹「どこ?」
前田「あそこ。」
佐竹「あそこって、あれ?」
前田「あれ。」
佐竹「あれ、登るようなとこじゃないよ。」
前田「山って登る所?」
佐竹「また、変な理屈こねくり回す気でしょ。」
前田「山は登るとこじゃないんだよ。でも登るんだ。」
佐竹「そこに山があるから?」
前田「そう、好奇心は止められない。」
佐竹「危ないよ。」
前田「多少の危険はスパイスさ。」
佐竹「ダサ。」
前田「ダサくて結構。」
佐竹「高そう。」
前田「高いからいいんだ。いいよ、いったん見てて。登ってみるから。」
佐竹「怖いな。」
前田「君が怖がることないだろう。」
佐竹「怖いよ。君のケガだって、自分のけがと同じように怖い。」
前田「そう?」
佐竹「君は怖くない?」
前田「痛いのは嫌だけど、怖くはない。」
佐竹「そっか。」
前田「じゃあ、登るぞ!ふう、結構高いな。」
佐竹「あんま乗り出さないで。」
前田「大丈夫、落ちやしない。」
佐竹「見てるこっちがひやひやするんだ。」
前田「いい景色だよ、来ない?」
佐竹「僕は……。」
前田「そっか、残念。」
佐竹「登ってどうするの?」
前田「どうするって、ねえ、登ること自体が楽しいし。景色もきれいだし。」
佐竹「何も考えてないんだ。」
前田「君と、ここで話したら楽しそうだなって。」
佐竹「登らないよ。」
前田「いいよ。この構図で話すのも面白いし。」
佐竹「ねえ、誕生日。」
前田「うん。」
佐竹「来るんでしょ。」
前田「うん。」
佐竹「良かった。」
前田「お祝いにはいかねば。」
佐竹「そんな人間でもないだろう。」
前田「そんな人間だよ。君、幾つになるの?」
佐竹「幾つって、同じだよ。前田君と。」
前田「そうだよな、やっぱ同じだよな。」
佐竹「当たり前でしょ。」
前田「抜かせないかな、兄。」
佐竹「お兄さん幾つ?」
前田「大学生だったのは覚えてる。」
佐竹「結構離れてるんだ。」
前田「うん。うわっ。」
佐竹「危ない!」
前田「うお、危ない。」
佐竹「危ないよ!」
前田「セーフ。」
佐竹「下りない?」
前田「もう少し。陽が沈むの、みたいな。」
佐竹「いつまでかかるの。」
前田「秋だから早いよ。ほら、暗くなってきた。」
佐竹「暗くなっちゃった。」
前田「今何時?」
佐竹「七時前。」
前田「そっか、そろそろ帰んないと。」
佐竹「冷えるね。」
前田「うん。」
佐竹「下りれる?」
前田「照らして。」
佐竹「はい。」
前田「ありがと。危ないな、見えない。」
佐竹「気を付けてよ。」
前田「うおっと。」
佐竹「気を付けてって言ったじゃん。」
前田「ケガはない。」
佐竹「心臓に悪い。」
前田「誕生会楽しみにしてるよ。」
佐竹「うん。」
前田「じゃ、また明日。」
佐竹「うん。またね。」
前田「バイバイ!」

前田「誕生会当日、浮かれた私は額を切った。佐竹君の頭頂とぶつかって。ピリッと切れた。彼の家には、ガーゼやら何やら常備してあって、佐竹父がお医者さんだからといって、傷を診てくれた。大して深くなかったらしい。ただ、細かい血管多くって、血がいたずらにでた。少し押さえていれば、すぐに止まった。私は何度、人の誕生日を微妙な空気にすれば気が済むのだろう。」
 
前田「高校三年の冬。生物なんて菌一匹残らず絶滅したような殺風景なグラウンド。いつもは、授業か、部活かで、誰か使ってるけど、今は私と佐竹だけ。二人で棒立ちしてた。冷たい風が、ひゅるりと吹いた。」

前田「ねえ、君の『たけ』って『竹』の方なんだね。」
佐竹「そうだけど?」
前田「そうなんだ。」
佐竹「今まで知らなかったの?」
前田「うん、武の方だと思ってた。」
佐竹「……。」
前田「ねえ、冬のグラウンドってどんな味だと思う?」
佐竹「グラウンドの味?」
前田「そう、冬の。前さ、夏にグラウンドを舐めたんだ」
佐竹「うへぇ。」
前田「引くのが早いよ。」
佐竹「十分、機は満ちてたと思う。」
前田「どんな味だったと思う?」
佐竹「味したの?」
前田「ううん。ざらざらしただけ。」
佐竹「やっぱり。」
前田「でもさ、冬になったら何か変わると思わない?旬的な何かで」
佐竹「思わない。」
前田「でも、こんなに、景色が違うんだよ。気温も湿度も。」
佐竹「それで舐めるの?」
前田「入試終わったら、いよいよ来ないじゃん、学校。今しかないんだよ。」
佐竹「僕は舐めないよ?」
前田「私が友達に砂を舐めさせるような奴に見えるの?」
佐竹「……。」
前田「きみは僕を妖怪かなにかだと思ってるの?」
佐竹「妖怪、砂舐め。」
前田「失礼だな。」
佐竹「砂舐めるのは事実だろ。」
前田「事実だけれども。」
佐竹「で、僕はなにしたらいいの?」
前田「前さ、グラウンド舐めた時、先生に見つかって注意されたから。」
佐竹「見張り?」
前田「うん。あ、あきらめたような顔した。」
佐竹「諦めたんだよ。」
前田「癖になってるよ、その顔。」
佐竹「誰のせいだと。」
前田「よくその顔してる。」
佐竹「はあ。いいよ、見張ってるからサッサと舐めて。」
前田「ありがとう。」
 
前田、地面を舐める。

前田「うへぇやっぱりザラザラだ。」
佐竹「そら変わんないでしょ。」
前田「でも、ひんやりしてた。」
佐竹「そうなんだ。」
前田「無味乾燥だな。」
佐竹「ねえ、大阪の大学に行くって本当?」
前田「うん。」
佐竹「そっか。」
前田「一人暮らしだよ、夢の。」
佐竹「僕、地元に残らなきゃいけないんだ。」
前田「愛されてるもんね。」
佐竹「うん。」
前田「佐竹佐竹笑うってな。」
佐竹「え?」
前田「笑いなよ、来年からも。」
佐竹「え、うん、笑う。」
前田「頑張れ。」
佐竹「君も。」
前田「当然。」
佐竹「ねえ。」
前田「何?」
佐竹「後悔してるんだ。」
前田「何が?」
佐竹「前、君が誘ってくれた時、勇気が出なくて、やらなかったこと。」
前田「砂、舐める?」
佐竹「違う、もっと前。中学の時、登った。」
前田「登った?」
佐竹「覚えてない?」
前田「多分。」
佐竹「そっか。」
前田「大事なことなの?」
佐竹「うん。ずっと、後悔してる。登っとけばなって。」
前田「登る?」
佐竹「登りたい。」
前田「登ろっか。」
佐竹「うん。」
前田「で、どこ登るの?」
佐竹「あそこ。」
前田「ああ、あそこ。」
佐竹「思い出した?」
前田「うん。なんとなく。」
佐竹「登ろうよ。」
前田「僕も?」
佐竹「お願い。」
前田「危なくない?」
佐竹「危ないよ。」
前田「危ないの?!」
佐竹「危ない方がいいって言ってた。」
前田「そんな蛮族チックなことを?」
佐竹「君は割と蛮族だよ。」
前田「失礼な。」
佐竹「妖怪だし、蛮族だし。」
前田「そいつ社会生活送れてないだろ。」
佐竹「送れてないよ。」
前田「じゃあ、僕じゃないな。」
佐竹「さあ、登ってよ。」
前田「よし来た、過去の自分にできて、今やれないことなどない。」
佐竹「気を付けてね。」
前田「たっか。」
佐竹「どう?」
前田「いい景色。思い出してきた。来なよ。」
佐竹「うん。」
前田「怖い?」
佐竹「ちょっとね。でも大丈夫。」
前田「腕、白いね。」
佐竹「そう?」
前田「うん。昔から。」
佐竹「そっか。」
前田「腕白ってさ、腕白いって書くじゃん。」
佐竹「うん。」
前田「逆だよね。腕白いやつ、腕白じゃないだろ。」
佐竹「僕は腕白じゃないな。」
前田「君とあった時さ、腕が白くて、いいなって思ったんだよ。」
佐竹「なんで?」
前田「なんでだろうな。文化の香り?がしたんだ。気品高い。」
佐竹「そうかな。」
前田「土の匂いがしなかった。」
佐竹「褒めてるの?それ。」
前田「褒めてる。不健康の白さじゃない、気品の白さ。君がさ、ここを登って、腕白で、なんか、新鮮だ。」
佐竹「やっぱり、そう。」
前田「うん。」
佐竹「ほんとに、綺麗だ。」
前田「でしょ。」
佐竹「僕さ、ずっと後悔してたんだ。」
前田「聞いたよ。それ。」
佐竹「怖くて、僕そういうことしてこなかったから。ケガすることがじゃなくて、駄目だ、駄目だって。何だろう。」
前田「道徳?」
佐竹「そんな感じ。自分の道徳が、ぎちぎちに縛られて。」
前田「そっか。」
佐竹「君は縛られないね。」
前田「いや、いろいろ縛られてるよ。」
佐竹「そう?」
前田「うん。でも、道徳、倫理に縛られてるのが君の良さでもある。」
佐竹「大学、大阪のに行きたい。」
前田「そう。」
佐竹「君と。」
前田「そっか。」
佐竹「君がさ、僕の、この、縛りを、気品だって言ってくれて、救われる。」
前田「君は十分美しいよ。」
佐竹「告白?」
前田「いや。ただ、美しいという事実をだね。」
佐竹「知ってる。」
前田「僕は美の奴隷なところがある。」
佐竹「かっこつけだ。」
前田「美には正直でないといけない。」
佐竹「それが君の縛りか。」
前田「嘘だけど。」
佐竹「恥ずかしくなったんでしょ。」
前田「うん。」
佐竹「大阪、言っちゃうんだ。」
前田「うん。この景色も、もう、見ない。」
佐竹「帰ってきなよ。」
前田「帰ろっか。」
佐竹「まだ。」
前田「もう日が暮れるよ。」
佐竹「まだだよ。」
前田「明るいうちに下りないと……ほら。」
佐竹「下りるときの方が怖いな。」
前田「うん。ゆっくりね。」
佐竹「君もおりて。」
前田「楽しかった。」
佐竹「僕も。あの時も行っておけばよかった。」
前田「後悔したっていいんだよ。」
佐竹「いい思い出になるか。」
前田「うん。じゃあね。」
佐竹「バイバイ。またね。」
前田「バイバイ。」

佐竹、はける。

前田「見送る、彼の表情は、全然晴れやかじゃなかった。もうすぐ、卒業だ。卒業すれば、彼とももう会わないのだ。私は新しい土地へ向かうとはそういうことだと思う。また別の人生を送るようなものだ。口の中にずっとジャリついてた砂を、ぺっと吐き出した。すっきりした。」
 
前田、座る。

前田「大学一年の春。一人暮らしの部屋、とりあえずで布団やら食器やらを出しただけの部屋。窓から光が差し込んでくる。ふぁあ、と欠伸一つ、春の陽気に包まれて呑気に考えた。二十歳になったら死ぬしかない。少し前にはこう考えた。高校を卒業したから、あとは豚になるだけだ。今年の夏で十九だ、来年の夏には二十歳だ。猶予はもう無い。急がねば。」
 
父からの電話。
 
前田「ああ、もしもし、父さん、久しぶり。ああ、うん取り敢えず落ち着いたよ。うん。帰るのはまだ全然先だから。うん。そう。分かっとるって。なに?佐竹君?知らんばい。地元に残るとはいっとったけど。うん。仕送りはそげん要らんけん。うん。大丈夫って。荷物も片しとらんけん。邪魔なるよ。うん。あ、大阪の桜もそっちとそげん変わらんばい。うん。もう咲いたとよ。それじゃ。ありがとうね。盆には帰るけん。はい。ばいばい。」
 
前田「一人暮らしだ。部屋の窓からは神社が見えた。神社には桜が幾本植えてあって、お花見してるだろう団体がちらほらと見えた。よし、行こう。花見だ!積みあがった段ボールを片すのから、逃避した。」

前田「大学三年の夏。結局死なずに今年の誕生日を祝っている。豚にはなったが満足だ。一人での誕生日会ももう三度目だ。一人暮らしだからと掃除を怠けたつけか、ゴキブリが出た。めでたい日になんてこった。情けない声を出してひっくり返り、机の角で頭を打った。焦ったのかなんなのか、良く分からないカブトムシのことなんかを考えた。走馬灯も見た。どれも素晴らしい思い出だった。一つ一つが、私の生きていた輝きだ。血がどくどくと出てくる。やっぱり痛くはない。近くに人はいない。」

終わり

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