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我慢について


日本では、苦難に耐え忍ぶストイックな意味で「我慢」が使われ、一見悪い意味ではなさそうだけど、我慢は少ない方が精神は、より健全で安定するのではと私は思う。

今回は「我慢」について掘り下げてみる。



我慢とは何か

耐え忍ぶこと。こらえること。

我慢の「我」は自我の我。「我慢」の「慢」は慢心の慢。つまり「自我に基づく慢心」の意味で
自分に執着することで起こる、 自分を高く見て他を軽視する思い上がりの心のひとつ。

我慢=我意を張る、 強情の意味

我慢を沢山抱える人は、なぜそんなに我慢が必要になるのか考えた事があるだろうか。
これについて多くの人は、環境や境遇、遺伝や病気などその人を取り巻く状況次第だと応えるのではないか。
もちろんそれも大きく関係している。
しかし、我慢が多い人ほど我慢強いという訳ではなく、同じ家庭や境遇でも人それぞれ物事の捉え方は違い、我慢についても向き合い方が違うだろうと考えている。

自分の我慢の正体に気付いている人、変化しようとする人が、我慢との付き合い方が上手い人、
つまり我慢強い人といえるのではないかと私は思う。

なぜなら我慢強い人は、「我慢」と感じていない場合も多い。
他の人が、我慢しなきゃと思える状況も、それを楽しんだり、状況を前向きに変えようとするだろうし、無駄だと思えば時が来るまで待つことができる。
要するに心に覚悟を備えている。
これは辛い治療に耐える子どもにも、その前向きな姿勢から観察することができる。
耐え忍ぶ人は我慢の後で希望を見出す人で、我慢の必要がない人は我慢しないで良い事を理解している。


マシュマロ実験は、子ども時代の自制心と、将来の社会的成果の関連性を調査した有名な心理実験だけど、我慢強さ云々よりも教育や家庭環境の要因の方が将来の成功に対する影響は、より大きいとされている。
私は「我慢」との向き合い方にも個性があると考えていて、それが環境要因と重なり人格が形成されているのではないだろうかと思う。

だから我慢できない人、或いは我慢だらけの人は自分の個性を自覚できていないからで、教育や環境がそれをサポートできれば、自分の我慢と向き合う姿勢が自然に備わっていくんじゃないかと思っている。



以前、通信制高校に通っていた人から話を聞いた事がある。
彼は中学生の頃、病気でその後不登校になり高校進学ができなかった。
中学受験で大学附属に入ったが、周りが附属高校に進む中、通信制に通う事になった自分に強い劣等感を感じていたんだろう。
入学した生徒と彼は距離を取り、孤独に勉強を続け見事自分が目指した大学に合格した。
彼は他の通信制の生徒をどこか見下していて、自分は我慢して頑張っていたと話す。
やっと本来いるべき所に帰ってきたとでも言うように、大学合格と自分の努力と我慢を主張する姿に、私は「大変だったね」と返したが、自分の過去(通信制に進学した事実)を否定的に捉えているなと感じた。
彼の我慢と努力は良い大学に入るためのもので、目標に近づけたかもしれないが、それによって大切な事を見過ごしているかもしれない。
おそらく彼の中で我慢は勲章のようになっていて、希望通りだが、自分の過去に対する否定的な捉え方が気になった。


対極のような人がいた。

彼女も中学受験だったが不登校になり高校進学できず通信に進んだ。
彼女は進学前から通信制に希望を見出していて、新しい学校生活に前向きだった。
途中病気が悪化して休みがちになりながらなんとか卒業し、大学にも進学した。
彼女の前向きな性質は、友達や先生に頼りにされオープンキャンパスで案内を引き受けたり、パンフレットなどに掲載された。
彼女は学生生活で体調を崩す事もあったが、自分の過去を「我慢」とも「試練」とも思っておらず、それについて自分から楽しそうに話してくれるので私は驚いた。
今の自分を否定せずに見つめ、希望を忘れない人だと感じた。

病名は伏せるが、2人は同じ病気で不登校になっている。
もちろん家庭環境も影響するが、物事の向き合い方に個性が関係するように感じた。

「我慢」は「こんなはずじゃない」という強い否定的な思いが「本来こうあるべき、こうなりたい」理想の形に期待させ、現実とのズレから生じるのではないだろうか。


自分の人生に責任と覚悟を備えたポジティブ(自己肯定に向く方向)は、自分に我慢を強いることは少なく、他人にも「我慢しなさい」とは言わず、いつもその時々に柔軟に物事を受け止めるだろう。


また問題になるのは、我慢しているのに我慢の自覚がない人もいる事だ。
いつの間にか我慢が蓄積し、ある日突然爆発するか、電池が切れて停止する。
人間関係に嫌気がさせば、関係もリセットしたくなるだろう。
他人に指摘されても我慢を抱え込み、無理をしたまま走り続けてしまう。


私も過去にグリップに陥り、これに近い形で電池が突然切れてしまった。
自分を過信し、同時に強い不安にも襲われていてそれを解消させようと必死に社交的に振る舞い、遊びも充実させていた。
次第に暴走して場当たり対応すぎて空回りし、直観が全くピンとも来なくて内心かなり焦っていたように思う‥
頭の中F1マシン運転してるようだった。
(その時は自覚がないので恐ろしい)
まわりの期待に応えようとするあまり「我慢」を見過ごし続け、私らしくなく個性は消えていた。


経験してみないとわからない事は、山ほどあって、私はそれから自分の我慢を自覚しようと意識するようになった。
見つけると直ちに怒りや我慢を掘り下げ、自分の欲求を深く辿っていき原因を見つけ出す。


我慢を自覚し、捉え方や考え方次第で、上手く扱えば我慢そのものを手放す事ができると私は考えている。





我慢強さ


我慢は外からはかることはできないが、「我慢強さ」は行動や態度となって外からある程度わかる。
辛い状況の時、人は素の人間性があらわれやすいが、そうした状況において、不平・不満を口に出すか出さないか、冷静であるか、問題に立ち向かえるかが、我慢を上手くコントロールする我慢強い人の特徴だと考える。
こういう姿勢は責任感があって成り立つから、いざという時、頼りになる人が該当するかと思う。


しかし「いざとなったらできる」と思い込んでいても、普段から問題や責任から逃げ癖があれば、いざという時に動けるはずもなく頼れるはずもないだろう。
そういう人は、何か問題があれば、都合の良い用事を思いついたり、遠慮していなくなったり、上の立場の者に媚び自分の身を守ったりするものだ。

我慢強さというのは、日常の取り組み方や日々の姿勢で、自分にも他人にも責任を持つ事でもある。




我慢が抱える問題



多くの我慢を自分の中に抱えるのは、我慢によって自制する必要があるからで、自制できない人は他責になるか、悟ったつもりで開き直り「どうせダメなのに馬鹿じゃないか?」と最初から諦めて、真面目な人に悪態ついたり茶化したり、嫉妬したりと色々まわりが気になって仕方がない。
問題から逃げてしまう人も多いだろう。

他責
自分以外の人や状況に責任があるとして、とがめること。
自責
自分で自分の過ちをとがめること。また、自分に責任があると考えること。


我慢を好む人が他者に「我慢した方が良い」と進めるのは、我慢できない人と単純に比べ、我慢する自分を正当化したくて、できていない人に指摘する。我慢する人と我慢の限界が来る人は、その個人周期によって交互に指摘し合うか、お互いに嫌に合う事になるだろう。


我慢を知ろうと変化する人は
「不平不満があるから我慢しなきゃとなるし、それを我慢できないから他責や逃げになる。我慢の根っこにあるのは同じ。なんだ同じ事をしてるじゃないか」と早々に気付く。
だから「我慢できないとは何事だ」と他人を責める気にもならないだろう。
他人に我慢できないと怒るその人自身も我慢してるわけだから、いつか誰かに同じ事を言われるだけなんだ。


我慢の原因について話し合う人や、それについて考える人はあまりいない。
「仕方ない」「今までそうだったから」「どうせ私は」と自分を納得させ、いつの間にかみんな我慢している。




我慢の原因

怒りには大体自分の欲望がくっついていて、自分が無意識的に我慢してるものが他者への怒りになる。
不平不満が多いのも、我慢が多いのも自分自身に怒り、認めていない課題。
これにぜひ気がついてほしいと私は思う。

他人に許せない事は自分にも許しておらず、そこに無意識的に我慢を強いるなら、妥協しながら生きる今までの自分を正当化している事になる。


我慢と他責を行ったり来たりして、根っこの問題は妥協しながら見過ごされていく。

他責思考(たせきしこう)とは、問題の原因を自分以外だと考える傾向が強い思考のことを指します。


他責思考と我慢の関係性



他責と我慢のサイクルを図にしてみた。 

自分にも他人にも社会にも不満があるので、不満を内向きに我慢(自制)するか、外向きに毒を吐き出すか(他責)になりがちではないか。

自分の否定から思考が始まると、このループに陥りやすいのではと私は考えていて、起点「不満」から、解消しようと思考は巡るが、結局不満は解消されず「仕方なかった」とする事で我慢が蓄積され、こだわりや偏見として思考は組み立てられていく。
だから、起点を否定(マイナス)からフラットに流れを変え、物事を認識するには自分の過去を肯定する作業は欠かせないだろうと私は考える。





「仕方がなかった」


今の自分が歩いてきた道(過去)に、我慢があると今の自分自身ではなく「仕方がなかった自分」「仕方なかった今」が積み上げられていくのがわかると思う。
「仕方がなかった自分」が自分の過去を積み上げると視野狭窄に陥り「仕方がなかった過去」に妥協しながら前へ進んでいく。

「仕方なかった自分」は、その時々で物事を上手く判断できない人が陥りやすく、何かのせいにする事で意思決定の責任を取らない事を無意識的に選んでいるように思う。
そして多くの場合、肩書きや名声で意思決定や人を判断していることが多い。
(集団に依存)

例えば「父が決めた進路だから(私は嫌だったけど)」「〇〇先生に勧められたから(本当はこっちが良かった)」「宗教だから仕方がなかった」「多くの人が同じ意見で安心だ」
集団の安心に流れ、誰か(信じる他人、権威)が決めた決定に思うようにいかない事実が発生した場合、不満になるので、その都度過去の意思決定を妥協し続けている。


日本の多くの人が「まわりがそうだから」「仕方なかった」「そんな環境だったから」「今までそうだったから」と自分の道を歩んでいる。
自分に個性がないような気もして、個性的でありたいと願うようになる。
他者と比べて自分を知ろうとするので、幸せそうな人を見て、羨ましい、ずるいなどの嫉妬や否定的な感情も生まれやすく「あの人は才能があったから‥」「環境が良かったから‥」と自分を納得させるための思考は続いていく。

劣等感と自己肯定感の分かれ道

仕方なかった道(過去否定)
前向きな道(過去肯定)


自分をあまりに自然に否定し続けて、未来の願望や期待に葛藤を抱えたまま精神は、疲弊しやすい。思考はネガティブになり、良い未来や可能性を描きにくい。
我慢の重い足枷を引き摺りながら、いつかきっとと期待して、現実逃避する事で過去に妥協し、遠い未来を夢に見ている。(幻想)


これが自己否定や劣等感に繋がっている原因で、
仕方なかった言い訳を外にも欲しがり、自分を正当化することから思考が始まる、我慢トラップにかかり続けている。
気付かないと我慢と他責の「仕方なかったループ」から抜け出す事は難しい。

我慢の足枷は、内に秘めた怒りと直結している。
秘めた怒りは普段無意識に抑圧されており、その正体は中々気がつきにくく、触れようとすると精神は激しく揺れるだろう。
我慢で抑圧が蓄積するほど、不満が溢れ出てくる。


我慢がMAXになった時、怒りとなって他責になるか、無意識に問題を放り投げ、責任から逃れようとする。
しかし、意識しなくなるだけで問題は心の底で燻り続ける。
期待が大きいほど、現実とのギャップに絶望的になり、「裏切られた」と誰かを責めたい気持ちや言い訳で頭の中がいっぱいになる。

我慢の自覚のない人は、燃え尽き症候群になりやすく、(自分の思い通りに)変わらない社会や他者に、絶望し悲観するだろう。

しかし変わらなきゃいけないのは、まず自分の認識の方で、我慢の荷物を少しずつ降ろしながら歩き出すのが1番良いと私は思う。
図を見てもわかるように、我慢の足枷をつけて積み上げたまま前に進み続けるのは長期的に不利になり、精神病のリスクも上昇する。



自分を常に前進させる自己肯定感は、自分の過去紡いできた道を肯定し、自分の中にある我慢を認めていく事から始まる気がする。

自分の我慢の根っこに気付きくと、本来の自分が「やりたかった事」「進みたい道」自由が、見えてきて心が軽くなるかもしれない。




「我慢」が社会に与える影響



日本は個人で「我慢は良くない」と感じながらも、社会的には我慢を推奨しているなと感じる。
教育や家庭において「あれダメ、これダメ、こうしましょう」という手本(理想形)だけを示すようなあり方、これは一方的な「我慢」の押し付けで、子供たちは、なぜ社会が示す理想形に合わせて自分達が我慢する必要があるのか問う機会はあっただろうか。
「みんなでこうしましょう、こういう姿勢でいましょう」では、自分自身にそれを問う機会もきっかけも奪われる。
そうするべき理想形によって道を描かれ、そうなるべく未来の理想列車に乗せられ、その中で各々が描く目標に動かされていく。
私達個人の意思決定の機会はいったいどこへ行ってしまったのか。

進学を考える機会や何かに挫折するたびに、自分が今まで歩んできた道を振り返る事は何度もある。
上手くいかなかった機会が多いほど「仕方なかった」と妥協しながら前に進むしかないが、いったい何を基準に妥協し、我慢しているのか自分自身それに気付く必要がある。
それが自分が大切にしている価値観であり、それに影響を受けるのは意思決定の指標になっている。
社会全体(集団)が「こうあるべき理想」に動かされていて、高校に進み大学に行き就職して結婚して子どもを育てる‥その間にそれなりの青春と恋愛と学歴と知識と仕事と富と名声‥欲しいものは沢山あるだろう。

それが全部欲しいから、理想形でいたいから、夢を叶えたいから「今我慢しなきゃ」となる。
そして我慢ができる人は目標に近づけると信じていて、我慢できない人、社会の理想形の期待に添えない人は集団から外され孤独に追い込まれていく。
その救済として社会福祉や宗教、支援団体、ボランティアなど。
または詐欺のような犯罪組織、洗脳、薬物、性被害など人の弱みに漬け込む存在もある。

集団列車に乗りながら、勝ち組と負け組に分けられ、生きるために必死になって社会の理想形と自分を繋ぎ止めようとしている。
外れた人は社会不適合、孤独になり、常識に合わせるための更なる我慢の足枷を科せられる。
一度列車から外れると、元の列車に乗ることが難しい。
今までの経験や過去、学歴、資格などからその人が選別され、そこにはいつも条件があり、条件をクリアしないとチャンスも少ない。
その人の今の姿勢や取り組み方や、その人自身の素晴らしさは目に見えないし、形ある物として認識もできない。
「見えない深部」を評価できないから「マニュアル」を作り見える化して判断の指標にする。
だからその評価が学歴、経験してきた具体的な事実、資格など目に見えるものになる。

生きてきたその人自身の学びや成長過程(過去)は、その人自身を示すありのままの姿。
けれど「何かになるため」(自分の目標)に、目指す理想形に向かってありのままの自分自身ではいられなっているのではないだろうか。
ありのままは、社会の理想像が期待となって過去が「仕方なかった」と否定され、自分自身を見失っていく。
信頼する自分の道(価値観)を、集団の評価によって否定も肯定もされてしまう世の中。
それに抗いながら、自分らしさを見つけていくだろう。

「ありのままを知り、自分らしく生きる」
とても単純なようで難しく、現実を直視し自分の今までの選択(過去)を肯定し、自分の未来に責任を追う事なんだ。


私は「絶望の先に可能性はある」と考えているし、現実の自分を認識する事はとても大切だと思う。
現実から逃れ己の過去を否定して、未来に願望を描き続けるのは決して良い選択ではないと思う。

本来の自分を見つめ自覚し、苦しめている我慢から自分を少しでも解放してやることが、長期的に見た精神の自由に繋がるのではないだろうか。

「有名大学に入りたい」
「名の知れた会社に入りたい」
「美人の彼女が欲しい」
「頼りになる彼氏が欲しい」
「結婚したい」「子どもが欲しい」

夢や願望は本当に自分が叶えたいものなのか、大切にしたいものかどうか、その時々で気が付いているだろうか。
未来は誰かから与えられるものではなく、自分で掴み取るもの、学び、勝ち取るもの、わかり合うもの。
そして過去は、どんな経験からもいつも大切な事に気付かせ、自分をより前へ推し進めてくれるだろう。

「自分がまわりからどう見えるか」集団からの評価や世間体に、自分の今の選択が右往左往されていないか、それによって自分に我慢を強いていないか。
我慢を自覚し立ち止まる事が、自分の意思決定や責任とどう向き合うか考えるきっかけになり、妥協しない生き方を模索していけば、自分の可能性はもっと広がっていく気がする。


自分の本当にやりたい事や可能性は、自分にしか見えてこないし、自分の人生だから誰かを頼りにしても始まらないと私は思う。


自分らしく生きるってたぶんそういうこと。

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