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満員電車で朝食を

事情があった。
のっぴきならない事情があって、朝食を食べていなかった。
私の出身の街なら、電車の中で朝食を食べることは、別に異常なことではない。
のどかな風景が広がっていて、旅情がありますね、ぐらいなものだった。
だから別段意識せずに、朝食をカバンに入れて、家を出て、電車に乗ったのだ。

最初から、乗客がいるわけではなかった。
その時点で、食べてしまっていれば問題なかった。
ある駅を越えたタイミングで乗客は駅のホームから電車へ傾れ込んできた。
水が低い位置に広がるように、乗客は電車の隅から隅までくまなく広がって満たされてしまった。
あっという間だった。
その時点で朝食をまだ私は食べていなかった。

何も満員電車の中で朝食を食べなくてもいいじゃないか、とあなたは思うかも知れない。
そこがのっぴきならない事情なのだ。
私は朝食を食べなければならない。
一刻も早く、朝食を私の体に摂取しなければ、私は溶けてしまうのだ。

特殊体質、と言うものがこの世に存在することを知っていますか。
私はその特殊体質だった。
溶けてしまう、といってもドロドロのスライムになるわけではない。
だんだんと柔らかくなって、短くなり、やがて、何もなかったように、存在が消えてしまうのだ。
初めから何もなかったかのような、ポツンとした空間になるのだ。
それがどう言う意味なのか、想像してみてほしい。

百歩譲って、普段であれば、それでも別に構わない。

今日はそののっぴきならない事情なのだ。
すなわち、私はデートをする。
生まれて初めてデートに誘われて、おめかしをして、今その現場に向かっているわけだ。
朝食を摂取せずに溶けてしまったら、相手はなんと思うだろう。
つまらぬ女であったな、と罵詈雑言をSNSにあげるに違いない。

それは是非とも避けたかった。

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