ちょっと早く大人になりすぎた

↑わたしが大好きなガールズバンド、Hazeの曲の一節です。ぜひ。

わたしのTwitterを前々から見てくれていた人はわかるかと思いますが、なぜわたしがこんな人間であるのか、わたしを形成した幼少期の出来事を、初めてちゃんと文字に起こそうと思います。不幸自慢(笑)なんかでもなくて、別に同情してもらおうとも、労いの言葉をかけてもらおうとも思っていません。ただわたしが生き抜いた18年をどこかにちゃんと記したくて、昇華させたくて、こうやってダラダラと書き連ねています。わたしという人間の存在を確立させます。いまここに。一種の自慰行為を、贅沢に電波に乗せて行わせていただきます。読者参加型、強制羞恥プレイでごめんなさい。

どこから話せばいいかわからないけど、幼少期の幸せな記憶は欠片ほどしかありません。わたしが2歳の時、パパは病気を患っていて、ママと、兄と、姉と、父と母が愛していた車の店を遺して、死にました。3歳ぐらいの時だったかな、あまり記憶は定かでないけれど、ママが熊のような大男を連れて家に帰ってきたことが地獄の始まりだったな。ここではみーくんと呼ばせてもらいます。「今日から一緒に住むことになった、みーくんだよ、あいさつは?」貼り付けたような歪な笑顔を3歳児に向けたみーくんは、物心のついていない幼女のわたしに底なしの恐怖心を覚えさせました。
そもそも、パパとママはお互いに再婚で、歳が一回りほど離れている夫婦でした。パパと前妻のもとに生まれたのが、二回りほど上の兄×2。ママと前夫のもとに生まれたのが、訳あって今同じ家に住んでいるアラサーの姉。みーくんがうちに来た頃には姉は上京していて、わたしと、ママと、みーくんの3人(と、1匹)暮らしでした。
父方の祖母から、わたしの家は他所と比べて普通じゃないかもしれないけど、と話は聞いていたので(わたしの記憶が正しければ)物心ついた頃には、それが当たり前、というか、普通ではないことを普通だと認識して生きていました。
小学校に上がったあたりかな、家が近くてよく遊んでいた女の子を家に招く時、ちょっぴり見た目の怖いみーくんをどう紹介したらいいのかわからず困惑。だからと言って、小学生ながらに家族♡を夢見る大人の男と女の夢を壊すまいと、お友達には「ママの弟が仕事なくなっちゃって、いまだけ一緒に住んでる!」とウソをついていました。毎回毎回バレないかなって、ヒヤヒヤしてたなあ。
その時わたしが住んでいた家は平屋で、長い長い廊下があったことを覚えています。みーくんとママは夜な夜なわたしを廊下のむこうに追い出して、「ベッドを買ってあげたから、1人で寝る練習をしなさい。」と、下心見え見えのみーくんに廊下の鍵を閉められては大声で泣いて眠れない夜をひたすら天井の模様を数えて時間がすぎるのを待っていました。みーくんはアル中、おまけに酔っ払うと大声を出して物を投げる悪い手癖があって、家は食器や、怒号や、ママの泣き声や、ミニサイズの地獄が飛び交う生活でした。いちばん嫌だったのは飼っていた犬をみーくんが外にほっぽって、犬が逃げ出してしまった時、わたしが泣きながら犬を追いかけようとしたら、「ほっとけ!」と朝から大きな声で怒鳴られたこと。あのとき、こいつだけはぜったいに○す。と、幼いながらも憎悪に満ち溢れていたと思います。(犬は奇跡的におうちに戻ってきました、えらいね、わん。)
みーくんに暴力を振られたことはありません。多分ね、記憶の限りは。ただ一つ忘れられないのが、ご飯ができたからみーくんを呼んできて、と、ママとみーくんの愛の巣をコンコンとノックしたかわいいかわいい幼女のわたし。手招きをしたみーくんがみていたのは、えっちな女の人と気持ち悪い男の人が赤色のベッドで舌を這わせ合う映像。所謂AVってヤツ。気持ちが悪かったな。どんな性癖してたんだろう、みーくんは。ママがあの時、まだー?って声をかけてくれなかったら、わたしはどうなっていたんだろう。考えただけで身震いが止まりません。あとは893映画をひたすら見させられていました。なんだったんだあれは、反社の英才教育か。そう思ってたけど、爆弾投下、普通にみーくん反社でした。背中にでっかい龍が住んでた893さんでした。みーくんの無駄にドスの効いた声も納得がいくね、納得したくないけど。

そんなこんなで、転機?住んでいた平屋がオンボロだったため、引っ越すことになります。その時あたしはママに、「みーくんと、新しい家に住みたい?ママは、なごと2人でいいかなって思ってるんだけど、嫌だ?」ママがわたしにそう言ったその時からわたしの世界はキラキラしていて、どんな嫌なことがあっても、怒号が飛び交うリビングでも、もうこれともお別れだ…なんて、せいせいした気持ちで過ごすことができていました。新居にみーくんが私物を運んでいるのを見たその日までは。
それを見たわたしは初めて人生で絶望という感情を覚えました。なんで、なんでなんでなんで、ねえなんでここにいるの、笑顔のママにそんなことは言えなくて。この日から、全てを諦めて、妥協して生きる癖がついたと思います。
いつのまにか、みーくんは無職になっていました。バイトも探さず、夜な夜な冷蔵庫を漁り、廃人のようになっていきました。そんなみーくんを見かねた母はやっと情を捨てることができたのか、みーくんを家から追い出しました。急展開。
やっとやっと、幸せな生活が…と思いきやまさかの事態。
ママもアル中、ヒス、暴力の地獄3点セットを持っていたことが発覚。あまりにもみーくんが見せた地獄が大きすぎて、気づくことができませんでした、ママの抱えていたまたもや大きすぎる爆弾に。ママは典型的な完璧主義者で、わたしがいくらテストでいい点を取っても、残りの数点がなんで取れなかったのか。なんでもっと頑張ることができなかったのか。何度も何度も責められて、その度にどんどん自己肯定感は擦り減っていって、いつのまにかゼロになっていました。お酒を飲んだママが、理不尽な理由でわたしの首を絞めたこともあって、わたしの居場所は家じゃなくて、わたしの部屋だけでした。わたしの世界である部屋が、心と同じように荒れていったとき、ママはそれを酷く嫌がりました。なんで部屋も綺麗に整えることができないの、そう言ってママはわたしの私物をわたしに向かって投げました。ハンガーやら、掃除機やら、鋭利なものやら、色んな物を投げられて、お腹を蹴られ、髪の毛を掴まれ、殺される。咄嗟に悲鳴を上げたはずだったのに声は出なくて、わたしの叫びはどこにも届くことなく、荒い呼吸に変わっただけでした。頻繁な過呼吸も、フラッシュバックでおかしいくらいに泣き出してしまうのも、これがきっかけだったかな。学校の先生に児相に逃げることを勧められたとき、ママを悪者にしたくない、ママを捨てることができない自分がいて、そんな自分に驚いた。そのときの感情がママへの惰性だったとしても、女手一つ(みーくんはまともな収入を得ていなかったので)でわたしを金銭面で苦労させることなく育ててくれた感謝はいまでも忘れない。ひもじい思いとかしたことなかったもん。愛してる人がどんどん弱っていく姿を見ていることしかできない、永遠に会えなくなってしまった喪失感だったり寂しさだったり、それらを何かで誰かで埋めようとしたけど、うまくいかなかったんだよね。今までされたことは絶対に許さないし、水に流してあげようなんて思わないけど、わたしはママのこと嫌いじゃない。ママもママで、辛かったんだと思う。許さないけどね。わたしが限界を迎えて爆発したあと、ママと仲直り?したときの話はまたいつか。
ちなみに、今は仲良しとまではいかないけど、二人でご飯を食べて冗談を言い合って笑えるくらいの関係は築けています。だからわたしの旦那さんになってくれるひとは、安心して結婚の挨拶をしに来て大丈夫です。ただ、ガチ893のみーくんに別れた後も携帯の名義貸すのはやめて、ほんと〜に怖いです。そんな情はいますぐ捨ててください。

家族でディズニーランドに行ったことも、遊園地や水族館に行くこともなかったうえに、お出かけは8割型汚い居酒屋だったけれど、すきなひととキラキラしたはじめてを経験させてくれるためにとっておいてくれたんだね、感謝してます♡って気持ちで生きてきた(こうでもしないと劣等感で死んでしまいそうだったので)から、一生を共にしたいと思った人とは、いろんなところに行って、いろんな景色を見てみたいです。楽しみだな。

小学校でも中学校でも散々な目に遭ったことは追い追い、少しずつ更新していきたいと思っています。わたしの過食嘔吐の始まりとか、ルッキズムの拗らせとか、人間不信になったキッカケとか、ゴミ箱に捨てた恋愛遍歴とか。とりあえず、そんなこんなで18年間生きてきたので、わたしはちょっとやそっとのことじゃ死なないと思ってる、早くに覚えすぎた煙草や悪いもので身体を蝕まれない限りは。なんだかんだこれからも生き永らえて、なんだかんだ平凡な死に方をするんだと思います。でも平凡な死に方なんて嫌だから、すきなひとへお願い、いつかわたしを殺してください!

p.s.痛くないように、丁重に、綺麗におねがいします。


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