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「あいちトリエンナーレ2019」について書いた文章

「あいちトリエンナーレ2019」が提起する根深い問題 

海上宏美

はじめに

 「われわれは、情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけなければならない。それこそが本来の『アート』ではなかったか」と「あいちトリエンナーレ2019」のコンセプト文にある。だが、「情によって情を飼いならす」ことはそもそも両義的であり、どちらにも転びうる。情が暴れるか、あるいは情が鎮まるか。そして、マスメディアやソーシャルメディアで流される情=情報で、どれほどかの人々の情=感情が溢れ出た。コンセプト文を鑑みれば、飼いならす必要のある暴れる情=感情が存在することは「想定内」だったはずだが、にもかかわらず情=感情が暴れてしまいトラブルになった、のだろう。トラブルになったこと自体、私は悪いことだと思っていない。潜在している問題が露呈したと考えるから。

税金=公的資金の問題

 税金=公的資金なるものが芸術、あるいは芸術祭に投入されることは疑われなくてよいのか。税金=公的資金問題に関して、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」の委員を務めた岩渕潤子のネット上のインタビュー記事が参考になる。岩渕は「アメリカでは、NEA(全米芸術基金=さまざまな芸術活動に助成金を提供している連邦政府の独立エージェンシー)が1965年にできたとき、アーティストが反対した。反対のデモまでやっているわけですよ。日本人の感覚では理解しづらいかもしれないが、アーティストたちは、国が助成するということは表現の自由に介入されるきっかけを作りかねないと考えた。やはり表現は民間でやるべきだと。実際にアメリカの美術・博物館や図書館、大学もほとんどが私立で、それができる社会的な仕組みも、人々の精神、財力もある」(1)という。さらに「日本の場合は国や自治体のほうが偉いと思われていて、公立が『お墨付きを与える』という意識が一般的。今回の不自由展でも、民間のギャラリーでできた展示を公立の美術館でやり遂げたいという思いが(展示する側に)あったわけで、その発想に私は驚いた」と述べている。
 芸術祭というものは予算も規模もそれなりに大きいのだから、民間の資金だけではできない。ゆえに、公的資金は当然、と考えてよいのか。岩渕の言うように、国が公的資金を助成するならば表現に介入してくる可能性があると考えるのが、現代において表現する者が持つべき「直観」だろう、と私は思う。金を出すならば口も出す。口など出されたくないから公的資金は貰わない。アメリカの表現者にあるこの「直観」が日本の表現者にないのはなぜか。岩渕も驚くように、お上の「お墨付き」という発想が日本のアーティストにあると感じられる。アートだけではない。たとえば、憲法は政治権力の濫用を防止するためのものという考え方が立憲主義と言われるものだが、日本では逆に考えられている。憲法はお上が国民を制約するとして受け止められている。制約されているのが政治権力ではなく、私たち国民であるという感覚になっている。つまり「国や自治体のほうが偉い」という感覚なのだが、これでよいのか。
 この感覚に異を唱えなければならないのが、「表現の不自由展・その後」ではなかったか。しかし、「表現の不自由展・その後」の企画者たちは、公的資金が投入されるあいちトリエンナーレという芸術祭からの依頼に乗った。私は「表現の不自由展・その後」はあいちトリエンナーレ参加依頼を拒否するという問題提起=積極的なトラブル化、をすべきであったと思う。拒否できなかったということは表現と公的資金についての思考が「表現の不自由展・その後」の企画者に欠けているからではないか。「表現の不自由」という大きな構えながら、その思想には実は、お上の「お墨付き」は良いという「日本的な」脆弱さがあるのではないか。「表現の不自由展・その後」は「あいちトリエンナーレ」という芸術祭そのものを問わなければならなかったはずなのに、参加時点においてはじめから公的資金が投入される芸術祭に思想面で呑み込まれている。

専門家と官僚主義

 専門家とはどういうものかを考える必要がある。科学やアートの世界の人々は、それぞれの専門領域を持つ専門家でもある。専門家たちはそれぞれの業界において生きる必要があるので、市場における共通の利益を確保するための「専門家ムラ」を作る。「ムラ」の典型は官僚制であり、原発事故以降であれば「原子力ムラ」、オリンピックなら「五輪ムラ」、アートなら「芸術祭ムラ」などとなる。それぞれの「ムラ」は「ムラ」の利益を守ろうとするから、どれほどか官僚的になる。その業界で生きるみんなの力を合わせて利益を守らなければならないのだから。イギリスの批評家マーク・フィッシャーは『資本主義リアリズム』(2009/2018)のなかで新自由主義における「ムラ」や企業・組織の官僚化を「官僚主義の復活」であるという。官僚主義では本末が転倒する。たとえば、自治体は、住民サービスそのものの向上よりも、住民サービス向上の「表象」に労力を使うようになるとフィッシャーは指摘する。これが官僚主義である。国民生活向上よりも、国民生活向上の努力を「表象」しながら、結果として官僚-制度維持により労力が使われる。4年に一度(オリンピック)、3年に一度(トリエンナーレ)、2年に一度(ビエンナーレ)、その組織を作り制度維持をしなければならない。新自由主義市場においては、官僚だけでなく、利益を守ろうとする「ムラ」であればどこでも起きる。
 さらに例を出そう。2020年五輪聖火リレーは福島からはじまる。「頑張る福島の姿を全世界に発信」する。これが「表象」である。2013年に東京五輪が決まった時、「いわきの初期被曝を追及するママの会」の母親たちが「あなたたちの喜びは、私たちの悲しみです」(2)とネットに書いた。官僚主義は復興そのものよりも復興しているという「情報」「イメージ」「表象」の「発信」に労力を使う。自治体主催の芸術祭も同じで、マスメディアやソーシャルメディアで「芸術祭やってます」という「情報」「イメージ」「表象」が「発信」される。内容は問われない。それゆえ、情=情報だけで、情=感情が動いてしまう。
 このような官僚主義において「忖度」が働くことになる。日本もファシズム期においては「忖度」があった。昭和天皇裕仁は明確に意思を示さないので「輔弼」という名の政治家と官僚が天皇の意向を「忖度」するという仕組みがあったと研究者たちは論じてきた。現代日本では官邸の意向の「忖度」となる。「忖度」しないと公的資金も交付されない。そして「忖度」の発端は、天皇の肖像についてだったはず。

日本的価値としての天皇という問題

 したがって、現代における天皇という問題も避けられない。天皇や天皇制についての参照項はたくさんあるが、コンセプト文に名前の出ている丸山眞男を参照してみる。丸山が『日本の思想』(1961)で述べた広く知られる「天皇制における無責任の体系」という問題がある。
 日本ファシズム期に皇室を基軸とした「国体」があった。皇室の中心はもちろん天皇である。天皇基軸の「国体」という国家体制を護持するために国民である臣民は無限責任を負っている。無限責任とは無限の連帯責任のことである。「国体」を守る責任はだれにあるのか。国民全員の連帯による。国民全員が責任を取るというのは、だれも責任を取らないことと同じだから、天皇制はだれも責任を取らない「無責任の体系」でもあると丸山はいう。さらに丸山は「国体護持」が国民の多くに内面化されていたとも述べている。丸山の友人でもある竹内好は「一木一草に天皇制がある」と『権力と芸術』(1958)に書いた。「山川草木悉皆仏性」=「山川草木に悉く仏が宿っている」という仏教思想が天皇制に拡張され、草木にも天皇制が宿っていることを批評的に述べた言葉だが、1949年生まれの大浦信行が「内なる天皇」という言葉を使うのは、こうした丸山や竹内をはじめとした日本ファシズム期の政治思想や芸術思想を論評した人々の影響を受けていると私には感じられる。1955年生まれの私自身は「内なる天皇」があると思わないし、「一木一草に天皇制がある」とも考えないので、大浦の考えに共感することはない。
 この話に再度マーク・フィッシャーの見解をつなげてみよう。フィッシャーはこんなこともいう。環境問題対策のために、一人一人がゴミを出しているのだから一人一人が責任を負いましょうというリサイクルの「表象」は環境問題の責務のありかを地球全員の連帯責任にすることで責任問題を消滅させるのだと。つまり、環境問題はだれの責任でもないとなる。これは丸山が指摘する日本ファシズム期の天皇制の「無責任の体系」と似ていないか。環境問題とはウォーラーステインのいう「世界システム」のような「非人称的構造」なので、個々の主体が責務を果たすことでは乗り越えられない。原発も五輪も芸術祭も同じ「非人称構造」として動いている。
 官僚主義者はここでこう考える。内面では原発は良くないと思っている。だからこそ外面的には原発仕事に従うことができる。内面では否定しているのだから、外面的に仕事に従っても内面的に悩まない。だから、官僚的に仕事の遂行ができる。内面では本当はこんなことはやりたくないと思っているからそこ、外面では従うことが可能になる。組織勤めをしている人々は多くはそうした内面を持っているだろう。今どき、つまり新自由主義的「ムラ」以降、内面も外面も組織に従っている人間など少ない。内面的には組織に価値など感じていないが、外面的には組織維持をする。このことの結果が官僚主義だが、では何に価値があるのか。それもよくわからない。こうして日本的価値としての天皇、文化の象徴としての天皇が欲望される。アーティストが価値として信じ欲望するのはアートなのだろう。しかし、アートに価値を置かない一般の人々は別のものを欲望する。その欲望の対象が「平成」「令和」の日本では天皇となる。
 大浦は天皇に関わる自分の内面を、丸山や竹内の延長線上で、つまり「昭和」的に自問したわけだが、心が真に空洞化する官僚主義の「平成」「令和」時代では、むしろ日本的価値として天皇を求めるので、大浦の問題意識は逆の意味でしか伝わらない。不要な内部告発だと。大浦に仮に「誠実さ」があるとしてもその「誠実さ」に共感が生じない時代の理由がある。

コンセプト文の冒頭はナチスの芸術観に似ている

 「政治は可能性の芸術である」「政治は科学(science)ではなく、術(art)である」というビスマルクの言葉、「政治は科学的合理性だけでは理解できるものではなく、いわば芸術の領域に含まれるような直観を備えることが大切である」「政治は理屈のみで考えるものではなく、芸術とも根を同じくするもの」という森田実の言葉がコンセプト文にある。
 ここでナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスがフルトヴェングラー宛に出した公開書簡にある有名な言葉を引用しよう。「政治は、いや政治もまた、芸術なのです。ひょっとしたら、存在するもっとも高く、もっともスケールの大きな芸術だとさえ言えるかもしれません」(3)。ゲッベルスのこの言葉は、ビスマルクと森田実の言葉に似ている。時代的にはビスマルクと森田実の間にゲッベルスがいる。なぜコンセプト文ではゲッベルスの言葉が引用されなかったのだろうか。
 「あいちトリエンナーレ2019」のコンセプト文の冒頭がナチスの芸術観に似ていて悪いのかと言えば、私は悪いとは考えない。むしろ根深い問題が提起されていると思う。はじめからこうした問題提起がなされていたのだから、電凸などのあの程度のトラブルは些細なことであるし「想定内」だろう。だから芸術監督を辞任する理由などないのだ。芸術監督の気持ちを私が「忖度」すれば、危険な芸術祭にするためにナチスの芸術観に似ているヤバいことを最初から言ってるはずだけど、みんな気が付いてなかったの、という推測になる。

 なごやトリエンナーレ

 世の中が官僚主義になっていることを「直観」的に理解している人々もいた。「あいちトリエンナーレ2019」と同時期に「なごやトリエンナーレ2019」を開催した人々である。規模は「あいちトリエンナーレ」の1/100ぐらいだろう。イベントも展示も開催した。
 まずはじめに出来事があった。7月31日「あいちトリエンナーレ」の内覧会が終了する時間を見計らって、愛知芸術文化センターの路上で「なごやトリエンナーレ」主催の騒音イベントが行われた。イベントは騒音だけでなくペイントも行われ、路上にほんの少しだけ絵の具が付いた。それを見ていた愛知芸術文化センターの施設管理者が路上の絵の具の汚れを拭き取れと「命じた」。騒音行為者は拭き取った。
 この数日後、施設清掃を「命じる」ならば「命じられた」通りリテラルに積極的に清掃作業をやりましょう、と水の入ったバケツを持って行為者たちは「あいちトリエンナーレ」の会場へと入っていった。ハイレッドセンターの「首都圏清掃整理促進運動」を彷彿とさせる。会場には警官が導入され、警官に対して行為者らが「ガソリンだろ」と会話しながら、バケツの水を警官の足元に撒いたのが、公務執行妨害となり、8月7日、1名が愛知県警に逮捕され東警察署に拘留された。会期は延長され、11月19日名古屋地裁で第一回公判。「なごやトリエンナーレ」は展示会場が東警察署と名古屋地裁へと拡張されると告知した。私も名古屋地裁「会場」へ出向き、裁判イベントに傍聴席から「参加」した。被告は開口一番「なごやトリエンナーレにようこそ」と述べた。これらは優れた自己言及的な行為ではないか。「なごやトリエンナーレ」はこの裁判について、被告と検事の「どちらが勝っても、民主主義に未来はない」という認識を示している。この認識を敷衍すれば「大村と河村、どちらが勝っても、民主主義に未来はない」。この二つは「偽の二択」だから、どちらも選んではいけないだろう。
 美学者三浦俊彦は後知恵だと断りつつ、「あいちトリエンナーレ2019」は電凸をはじめから組み込み「ナチスの展示手口にならって」「展示全体をダイナミックな参加型アートに仕立て」ればよかったと8月30日にネットに書いている(4)。この時点で三浦は「なごやトリエンナーレ」のことは知らない、ようだ。一方の「なごやトリエンナーレ」は警察や地裁を巻き込む参加型アートになっていた。「どちらが勝っても、民主主義に未来はない」というのは優れた自覚であり、この自覚があれば自己言及にならざるをえない。官僚主義の只中にいる者はアイロニカルに自嘲するほかないのだから。この事件と「なごやトリエンナーレ」の詳しい記事は『情況』2019秋号に掲載されている。『情況』では「あいちトリエンナーレ」は扱われていない。『美術手帖』では「なごやトリエンナーレ」は扱われていない。これがどういうことなのかも考えてみる必要があるだろう。

おわりに
 
 「世界システム」のような「非人称構造」から逃れるためには、まずは自分の欲望のレベルで資本主義と官僚主義に翻弄されていることを認めるところから始めるしかないだろう。アートであろうと、原子力であろうと、世の中が良くなろうと悪くなろうと、革命があろうとなかろうと、新自由主義だろうとファシズムだろうと共産主義だろうと、羨望、嫉妬といった欲望、あるいは他者に認められたいという欲望は消えない。自らの欲望に向き合うことからはじめるしかないだろう。お上の「お墨付き」が欲しい、美術館に自分の作品を展示してほしい、国際美術展に招聘されたい、人々から評価されたい、危険な芸術祭にしたい…。自身のその欲望に向き合うことからはじめれば、これまでとは異なる「次」が想像できるのではないか。そう思えないだろうか。

(1) https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/10/post-13170_2.php
(2) https://nyathan.blog.fc2.com/blog-entry-25207.html
(3) フィリップ・ラクー=ラバルト『政治という虚構』P116
(4) https://tocana.jp/2019/08/post_110399_entry_3.html

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