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松の廊下で殿、御乱心

赤穂藩の武士達は、驚天動地の大パニックに陥ったことでしょう。
「殿がやっちまったみたいだよ」
「何を?」
「吉良殿を御殿で斬りつけたって」
「え~、まじか~」

現代なら、さしずめ市長が起こした傷害事件ですので、市長が辞めて、相手に一定の、賠償をすれば済んでしまう事件なのでしょうが、江戸時代はそうはいかなかったのですね。なぜか藩士も連帯責任を取らされるという、訳のわからない時代ですから。

赤穂藩は五万三千石。トップの浅野内匠頭は、将軍綱吉が事件当日に「切腹」を決定、赤穂藩は同時に取り潰しが決まったとのこと。

裁判もなく、即日。五代将軍恐るべし。

真偽は不明ですが、赤穂藩には400人の家臣がいたということなので、一気に400人とその一族が路頭に迷ったことになります。

さすがにちょっとひどすぎませんかね。

浅野内匠頭と将軍です。

仮にも400人を預かるトップが、仕事が上手くいかないといって、刃物を振り回してはいけません。

あとは将軍綱吉です。
戦国時代じゃないんだから、なぜ刃傷沙汰に及んだか、大目付に調べさせるとか、普通しますよね。
家臣に何の罪も無いのです。

大石内蔵助だって頭にくるでしょう。家臣団の約1割の47人が吉良襲撃を決意します。

大石に至っては、息子と一緒に参加するのです。もうわからない世界です。。

年表をみると、内匠頭切腹の約1年9ヶ月後、12月15日に吉良邸に討ち入り、本懐を達します。

品川の泉岳寺は、線香の煙が絶えることはありません。
遠い昔、東京出張の帰りにお参りして、お線香を手向けて、煙のなかを歩けたので、感動した記憶があります。

片や、綱吉の墓を参る庶民の話は聞いたことがありません。

大石内蔵助が、そこまで読んでいたのかはわかりませんが、300年以上経っても、赤穂藩の「大勝利」であったことは疑いのない事実ではないかと思います。
天晴れ、四十七士。


ちょっと足を延ばせば此れもあります。
これは家康の作品になると思います。






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