デクノボーになりたい。
【定義】
【令和のデクノボー】
役に立たない人を軽侮するときに使う言葉。
例えば、いまだに情報機器やソフトを使いこなせず、仕事の効率が極端に悪い人々が一定数いる。
電子マネー、電子決裁(決済)、電子契約、DX推進だの、AI活用だの………適応できず、最後は「役立たず」と格付された「デクノボー」と相成る。
【どっちが幸せか】
多くの人々は入試や試験を経てカイシャや組織に就職したり、フリーで働いたりしている。
学校、組織集団からは様々なタスクを与えられ、制限(予算と時間)内にクリアできないと、「役立たず」「デクノボー」との烙印を押されてしまうと皆思い込んでいる。
しかし、強力で浸透力もあるそんな評価尺度ではあるが、「役立つこと」を至上とする組織集団から離れたとき、「役に立つ人」と「デクノボー」のどちらが結果的に幸せになれるのだろうか。
定年退職が近づき、なにやら「デクノボー化」しつつある自身を考えたとき、
きっとデクノボーだって幸せになれる場所がどこかにあるのではないかと夢想するようになったのだ。
いや、もしかするとデクノボーのほうがノビノビと気軽に生きられるのではないか?などと……
例えば、
テストの点数が低い。
いつまでもレギュラーになれない補欠。
いつまでたっても平社員。
生活水準が隣のウチより低い。
同期より昇進が遅い。
等々、日々比較ばかりの毎日。
競争原理というキャピタリズムの根本原則が人々を動かす。
でも、構成員が、集団における比較による評価のみに、幸せや安心感を感じてしまっているとしたら、危うさを感じる。
競争原理にどっぷり浸かってしまっていることを示しているからだ。
競争相手がいなくなったとき、つまり退職してから、張り合いのない人生になるかもしれない。
半永久的にその組織集団に属して、優遇される確約でもあるのなら問題はないが、創業者以外は所詮いつか集団からは追い出されて只のヒトになる運命。
幸せとは、実に主観的なもの。
自身の感じかた(気分)に過ぎない。
そもそも、「デクノボー」を自分より下にみて安心感を得ている人は、いつの日かその誤りを意識することになるだろう。
【デクノボーニ ナリタイ】
戦前の話になるが、現代と違い、当時は超絶エリートであったサラリーマンを続けるうちに、いつしか最後にはデクノボーになりたいと書いた偉人がいるのは有名な話だろう。
齋藤孝の『バカになれ 50歳から人生に勢いを取り戻す』という本を読んだことがあるが、この有名な宮沢賢治の手帳メモについて、合点のゆく解説がされていた。
ポイントは、賢治のこのメモは、読者を想定したものではなく、自分の想いの吐露だったという点にある。
他人の評価なんて気にしないぞ
と手帳にメモした訳だ。
要は、あまりにも他者の評価を気にしすぎた人、人の評価にがんじがらめにされた人は、
他人の評価を気にしない
(他人軸に自分の貴重な時間を捧げない)
という固い決意をしてしまうことがあるのだ。
他人の評価を高くしよう、悪くしないようにしよう と躍起になるだけの人生が、どのような結末をむかえるか、考えさせられる視点であろう。
【ほどほどがいい?】
他人の好評価は無いよりはあったほうがいい。とくに、就職してからの好評価は、出世に伴う地位の向上につながり、富(金銭)との親近性も高いはずだ。
ただ、出世も金銭も、相応の責任や価格変動リスクを甘受するものであることに注意したい。
例えばサラリーマンは、人生のうち、組織から与えられたタスクへ心身と時間を相応に捧げなければならないことになる。
自分にとってはあまり意味も、意義もないタスク、仕事という名の会議や調整事のなんと多いことか。
真にやりたいことや趣味がある人にとっては、組織集団の束縛を極力避けたいところだろう。
また、勝ち組とされる資本家であっても幸せが永続的なものかどうかはわからない。
株式を持つものは、価格下落のトレンドが長期化するときに、
貴金属を持つものはその保管の仕方に、
賃貸物件を持つものは、入居者の減少や付近への新築物件などに圧迫されたときに、
冷静でいられる精神力を試されることになる。
価格や金銭的価値は変動する。
安定志向の者が、長く幸せでいられるのかどうか。
苦労して稼いだカネを、世界の株価に連動する記号に注ぎ込むような人生が推奨されているが、「デクノボー」面の自分が警鐘を鳴らすのだ。
「よ~く考えよう。おカネはだいじだよ~」
最近、どうしても樽に住んだ人の名言が頭から離れない。
奇人変人のディオゲネスも、食欲を解決するには食べるほかなかったようだ。
食べ物を確保するためにどうしたらよいのか。もらうか、買うか、作るかだ。
以前の自分なら、稼いで買うと即決しただろう。
でも、デクノボーなら、食べるためにどうするのだろうか。
乞食のようにふるまうのか、
施しをうけるのか、
クワをふるい自分で作付けするのか。
デクノボーは、買うだけではなく、他人の眼を気にせず、もらいながら上手くやる気がする。
【いいなりになっている人】
デクノボーには、「役に立たない人」「気のきかない人」のほかに、他の意味があるらしい。
あやつり人形
人のいいなりになっているひと
である。
これをみたときは、噴き出しそうになった。
サラリーマンや下請的な人達は、まさにこの「いいなりになっている人」だからだ。
先輩、上司、所属長、経営陣、取引先、元請が決定権をもつということ……。言葉の定義や哲学的な考察などは日々ほとんど意味を持たない……白を黒と言わなければならないことなど日常茶飯事だ。
感情をコントロールし、長時間労働にも耐え、与えられたタスクの実現に身を粉にして尽くしている人は文句無しに「役に立つ人」だ。他人軸評価も高くなるだろう。
しかし同時に、外見的には「いいなりになっている人」でもある。あやつり人形は言い過ぎだろうが……。
「デクノボー」の定義を、役に立たず、いいなりにならない人 とするとどうだろう。
樽に住んでいたディオゲネスや放浪の詩人、孤高の芸術家などが思い浮かぶ。
すくなくとも都合よく利用されない人となれるのではないかと思った。
他人の評価にあわせようとしないだけで、それだけでも生きやすくなりそうだ。
【結論】
役に立たず、いいなりになっている人が「デクノボー」だという。
宮沢賢治はそんな存在がいいという。
徴兵検査で甲種合格とならなかった。
国家の有用な人材となることが求められた時代に、高等農林を出てエリートとなり、教師となったが、最後は営業マンなどもやったりしたが、あまり上手くいかなかった。
人と比べていると不幸せになる。
こうなれば「デクノボー」となり誰からもキニモサレナイ、方が気分的にも楽だわね、とでも思ったのだろうか。
国家や組織集団、つまりは他人の役にたとうとしない者は、役立たずの烙印を押され、出世は決してせず、孤独になるかもしれないが、都合よく利用されない可能性も高い。(戦死もしないし)……。
都合よく国家や組織、note株式会社に利用されないよう、デクノボーになりたい。
イイネも要らず、
ビュー数も要らない。
とまではいかないだろうが、あまり評価は気にせずに、淡々と生きながら、今年も生きていければいいと思っている。
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