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小説 フィリピン“日本兵探し” (17)

クレアがタカシのところへ走ってきた。見てほしいものがあるらしい。クレアはサミエルとクワトロがいるサトウキビ畑にタカシを連れていった。
「見せたいものって?」
「これよ。アナタはどう思う?」
視線の先に鍬を持ったクワトロがいた。

「ひどいな。水牛の下に1人、2人…7人くらいいる」
作業を進めるサマール島出身のクワトロが現地語のワライワライ語で言った。サトウキビ畑で金属探知機に反応した場所を数十センチ掘ると、水牛の骨の下から何体もの兵士の遺骨が現れた。おそらく54年前にこの世を去った日本兵の遺骨だ。

隣のレイテ島では日本兵は約8万人が戦死した。勝利した米軍は、遺体の腐敗で疫病が広がるのを防ぐため、住民に命じて埋めさせた。複数の遺体が折り重なって発見されるのはそのためだ。ここサマール島でも戦闘後の遺体処理の仕方は同様のようだった。

さび付いて原形をとどめない三十年式歩兵銃や、化学兵器に備えたガスマスクの一部が見えた。ガスマスク?はけで周囲の土を落とす。

その残虐性から第一次世界大戦の頃から国際法違反の「戦争犯罪」だったはずの化学兵器。旧日本軍は毒ガス兵器を最後に使用したとされている。歴史学者の中には旧日本軍は毒ガスを使用しなかったと信じる学者もいる。旧日本軍による毒ガス戦がここフィリピンでも本当に引き起こされていたのか。

毒ガスの使用禁止を明言していたアメリカ自身も、1945年秋から日本本土上陸に備えて、毒ガス先制攻撃をする極秘作戦の準備を進めていた。ターゲットは九州各地33カ所、ユタ州の実験場でB25から毒ガスを散布して訓練が行われた。日本の降伏によって対日毒ガス戦は幻に終わるが、戦後、アメリカは日本軍の毒ガス使用という戦争犯罪を訴追せず、歴史の闇に葬ってしまった。結果、今も少なくとも30万発から40万発の毒ガス弾が地下や海中に遺棄されたままとされている。ここフィリピンにも毒ガス弾が残されている可能性はゼロとはいえなかった。
「小隊長と兵長を呼んでこよう。あとマサさんも」

しばらくして、アキラを含め4人が来た。
「おそらく日本の兵隊さんとみられる遺骨が見つかりました。マサさん、どうします?」
「もちろん掘って、日本大使館に連れていくよ。勝手に日本に持っていくなっち言うもんね。アイツら」、マサはいつも在フィリピン日本大使館に戦没者の遺骨を持ち込むため、大使館側からは面倒な人物と受け止められていた。ただ今回、タカシが気になったのは遺骨そのものもというより、装備品にあったガスマスクの一部だった。
「小隊長や兵長は、戦争中、装備品にガスマスクはありましたか?」
タカシの質問に元兵長が答えた。
「米軍が国際法違反の毒ガスを使う可能性があるからと言われとった。でもガスマスクは全員分はなくて、俺は持っとらんかった。その毒ガスを吸っても咳き込む程度っち言われとったけどね」
その一方で、元小隊長は口を閉ざしているように見えた。
「小隊長、どうしたんですか?」、タカシが聞く。
「俺たちの小隊は、毒ガス弾を持たされとった。米軍ではなく日本軍がよ。戦車が吹っ飛ばなくても中の米兵は殺すことができるって言われとった」
「毒ガスは、もっとひどい使い方があったのではないですか?」、その時、シュウが静かにこちらの話に加わってきた。

シュウが話し始めた内容は、元小隊長や元兵長の部隊内でも、まことしやかにささやかれていた噂話だった。
「毒ガス部隊で特攻を仕掛けるという、あの話ですよ」
シュウが指摘する噂話は確かにあった。それは、戦闘で圧倒的な兵力で押してくる米軍に対し、毒ガス部隊で特攻を仕掛けるというものだった。しかも、その人間兵器として起用しようとしていたのは、日本に忠誠心を持つ現地フィリピンの若者だったという。だが、その毒ガス特攻が大々的に実施されたという記録は残っていない。フィリピンの街に旧日本軍の毒ガスがばらまかれたという記録も同様に存在していない。ただ噂話のレベルだが、毒ガス戦という「戦争犯罪」が完全になかったと断言できない人々の話は、無視できないものといえた。

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