見出し画像

妊娠前の夫婦での話し合い#1

本日も妊娠前にやっておけばよかったシリーズですが
一番自分にとって重たい内容です。

それは、私がこのことにちゃんと向き合わなかったから。
今回は自分の失敗談、経験談含めた内容になります。
ハウツーではないので、気軽にお読みください。
そして長くなりそうなので何回かに分けて書いていきたいと思います。


なんとかなるでしょ

楽天的思考だった過去

とにかく能天気、楽天的、よく言えばポジティブだった20代を過ごした私でした。もちろんたくさん失敗もしたし、どろどろの恋愛をしたり、婚活で焦ったり、人並み以上におそらく波乱万丈な経験をしてしまったのですが、そこで培った「なんとかなる!」精神。

これは私にとっては大きな強みでした。大体のことは一人で解決できる。そう思えることで、チャレンジできることも多くありました。

子供が欲しい、どちらかといえば夫よりも私のほうが子供を強く望んでいました。夫はまだ、仕事にも専念したい、と思っていたと思います。
しかしお互い「子供を産むなら若いほうがいい」という風にも思っていた。

夫は「仕事は大丈夫なの?」「子供ができたら働き方どうするの?」
幾度となく私に聞いてくれていたように思います。しかし当時の私は

さすがに今の働き方は無理だよね
すこしセーブするよ
あなたの仕事の邪魔にならないようにする
だからどうしても子供が欲しいの!
きっとなんとかなるから!

と無邪気に答えていたように思います。
それが本心でした。
そして夫もそう受け取った。

それが私たちの妊活のはじまりでした。

順調じゃなかった妊活

なかなか妊娠しなかった。その事実は私をより焦らせました。
仕事なんかより妊娠。
そう思っているのに、今は人が少ないから妊娠しないでほしい
とか、そういわれたら素直に従うしかありませんでした。
20代のうちに1人は欲しいと思っていたのに、妊娠しないまま35歳がちらちら見えてきました。
いよいよ仕事をセーブして妊活しないといけないのかな。
そう思い始めていたころようやく妊娠したのです。

お花畑な妊娠期間

ようやく妊娠した、ようやくお母さんになれる、私は有頂天、お花畑。でもそれと並行して、自分の臨床研究も結果が出始め、学位をとる、という話が出始めました。
当初、そんなことを目指していたわけではありませんでした。
どちらかというと臨床が楽しかった私は、資格や学位にこだわりは全然なかったのです。
でも目の前に人参があればとびつく気質でもあり、やってみようかなという気持ちで取り組みました。
幸い妊娠経過はそんなに大きな問題はなく、産休を迎え、出産、華の母子ライフが始まるはずでした。
「産休入るだろ、その間に論文書いておけばいいよ!!」
その言葉をそうかそうかと鵜呑みにして産休に入ったのです。

今までのように臨床に追われて、業務が終わってから深夜に自分の調べ物や論文を書く、ということをしなくてもいいんだもの。
こんなに長い休暇、働いてから初めてのこと。
論文書く時間くらいとれるよ。休みなんだから。
ウキウキ。
それが私の悪夢のはじまりだとも知らずに。

どうにもならない

最初の壁

出産後は全く順調じゃありませんでした。
里帰り出産をしたのですが、その時点で、実家でどう立ち振る舞えばいいかわかりませんでした。
実家には実家のルールがある。
それに適応しなければならない。
家をでてから10年以上、実家とはいえ、適応することは私にとってはやはりストレスでした。

朝ごはんや夜ごはん時間、両親も働いていたので、合わせる必要があったのですが、深夜の授乳で寝ていたい…てときにごはんよ~と言われるのがまず苦痛でした。

それから、夫は深夜まで働いていることが多く、深夜に実家に寄ってくれていたのですが、夫のごはんの準備に関しても、夫は、私の親が自分の分も準備してくれるだろうと思っているけれど、私の母は、帰る時間も遅く、そんな時間に準備なんかできない、何をどのくらい食べるかもわからない、大人なんだから食べてくるなり、自分で準備してほしい。と2人に挟まれてしまいました。

なんとかうまくやりたい。
どっちの要望も理解できる。
どうしたらいいのだろう、と悩みながらも
気まずい空気を払う解決策は私には見出せませんでした。

今考えると、これらも、私がどちらにもはっきり伝えないことが原因だったように思います。

次のトラブル

そんなスタートを切った育児ですが、退院後2週間でひどい乳腺炎となってしまったのです。
高熱、痛み、悪寒。授乳のたびに唇をかみしめないと我慢ができないほどの痛み、授乳してもひかない乳腺の発赤と熱感、泣いている赤ちゃん。
対立しはじめる自分の親と夫。
体調も限界を迎えていました。
何回目かの病院受診で、体重が減っていた赤ちゃん。
ミルクを足すことになり、いよいよ壊れてしまいました。
ミルクだってなんだっていいよ。
私と赤ちゃんを助けて。

それしか思えなくなっていました。

そして、赤ちゃんを実家に預け、入院、切開する手術を受け
その後連日創部洗浄に通う日々
その間赤ちゃんは実家の母がみててくれていました。

入院する日も仕事をしていた夫でしたが
夫としては
私と赤ちゃんのことは私の両親にまかせておけば安心

私の両親は
娘がこんなにつらい思いをしているのに、こんな時まで仕事仕事ってどうなっているの?

また挟まれた私。でももう具合が悪すぎてどうすることもできない。
また溝を深めてしまったのです。

伝わらなければ意味がない

わたしはその場をまるくおさめることばかり考えていました。
どっちにもいい顔をしたかっただけなのかもしれない。

夫には、自分の親はいい両親だと思ってもらいたいし
両親にはいい夫だと思ってもらいたい

私は間に挟まれてお互いの溝を深めることしかできませんでした。
お互いに何を考えているか伝えることが私の役目だったはずなのに
それができなかった。

あの頃に戻れるならばどんな話をしていたか

そう、あの頃に戻れるとしたら、里帰りする前に

夫には、私の親はこんな人なんだよ、時間に厳しくて、ルールにも厳しい、そんな家なんだよってことをちゃんと伝えるだろうし、どう立ち振る舞えばいいかも事前に伝えていただろうと思います。

両親には、私の夫の帰りは遅くて仕事に夢中だけど、私と赤ちゃんのこと、ちゃんと大切に思ってくれているんだよって伝えると思います。

それができていたらよかったなぁと、今でも当時を振り返ると後悔しかないのです。間にはさまれてしまったら、逃げないで、ちゃんと話す。
ただのすれ違いがどんどん大きな溝になってしまうものなんだと、痛感した出来事でした。

でもこれだけでは終わらない、どうにもならない事件がどんどん勃発していきました…。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?