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秀吉朝鮮出兵の時に、日本人から朝鮮人となった「沙也可」のこと その2.

 私は昨年(令和5年)の九月に所用があり、釜山に行くこととなった。到着翌日、釜山からKTX(韓国の新幹線)に乗って東大邱(テグ)駅へと向かった。約一時間のみちのり。そして東大邱(テグ)駅からタクシーに乗って約三十分、友鹿洞(ウロクトン)の達城韓日友好館を訪れた。この達城韓日友好館は日韓友好を図るために2012年に開館したものである。
 この友好館に入ると、まず最初に映写室で沙也可の生涯をアニメで描いた映像を見た。なかなかの迫力があり、また分かりやすく、沙也可の生涯がよく理解できた。このアニメを見て、初めて知ったことがらが、沙也可が朝鮮に伝えた鉄砲の技術が文禄・慶長の役、朝鮮からみると壬申倭乱という戦いを朝鮮側に好転させたということである。確かに朝鮮には当初、鉄砲はなく、日本軍にひたすら弓で対抗していた。これが文禄の役(1592年)の最初の頃の、日本軍の快進撃につながったと言えると思う。
 それが慶長の役(1597年)での朝鮮側の反転攻勢の大きな理由が鉄砲の使用と、李舜臣率いる水軍の大活躍であったとこのアニメでは語られている。また李舜臣の息子と沙也可が深い交友があったことも、このアニメで指摘されている。ということは、慶長の役の時の朝鮮側勝利の功労者と言えるのかも知れない。その後の朝鮮内での出世を見ると、あながち間違いではないであろうと思う。
 この達城韓日友好館で案内をしてくれた女性は日本語を話すことができた。あらかじめ、連絡しておいたから日本語を話す方を用意してくれたのかもしれない。この女性が沙也可のことを色々と説明してくれる。現在この友鹿洞の村には沙也可一族の子孫が八十人くらい住んでいることなどを知ることができた。
 慶長の役の後、朝鮮の王様、第十四代宣祖から金忠善という名前を貰い、朝鮮の貴族階級の両班(やんばん)となった。余談であるが、この両班という階級は、朝鮮王朝ドラマを見ると随分偉そうにしている人たちである。李氏朝鮮の身分階級は、両班、中人、常人、賎人の四つに分かれているのだが、日本人から朝鮮人に帰化して、さらに両班の階級まで登り詰めることができたということは、よほど朝鮮の王様からその手柄を認められたということなのであろう。
 その後、沙也可は数々の戦争で功績をあげ、さらには朝鮮の北方を守る将校をつとめ、老いてからは大邱(テグ)の友鹿洞の地に一族とともに籠もって、書を読む日々を過ごし、寄りくる人々の教育に励んだそうである。そして、現在まで、沙也可の村は沙也可を尊敬しながらもひっそりと続いているのである。


沙也可将軍
鹿洞書院 金忠善の志を称えて建立された


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