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秀吉朝鮮出兵の時に、日本人から朝鮮人となった「沙也可」のこと

その1.
私が沙也可のことを初めて知ったのは、伊藤潤の小説「黒南風の海」(くろはえのうみ)を読んでからである。秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の時に、日本軍の先陣・加藤清正の鉄砲隊をあずかる佐屋嘉兵衛忠善が、他国を侵す戦いに疑問を抱き、朝鮮の美しき景色や文物に魅力を感じ、さらには、朝鮮の女性と恋に落ち、ついに降倭(こうわ)という朝鮮側に投降する将校となる物語である。この「黒南風の海」は2011年の第一回目の「本屋が選ぶ時代小説大賞」を受賞している。
私は大変面白い小説だと思った。それと同時にこの沙也可に強く興味を持ちはじめた。沙也可は当初は朝鮮軍と戦っていたのに、投降後、朝鮮軍の鉄砲隊として、日本軍に戦いを挑んできた。なぜ、そのような気持ちになれたのか。本当に沙也可は実在したのか。その後沙也可はどうなったのか。などの疑問が次々に沸き起こった。
そして沙也可について調べてみた。すると、沙也可の出自について、いろいろな説があるということがわかってきた。伊藤潤の小説は、あくまでもひとつの仮説であって、それを小説に仕立て上げたというものであった。
沙也可について有力な説は、「さやか」が「さいか」であるという説である。司馬遼太郎も「街道をゆく」の中で、雑賀(さいか)のことではないかと推理している。雑賀とは紀州の雑賀衆のことで、文禄・慶長の役にも参加しており、かつて信長を苦しめた鉄砲隊で知られる土豪である。
 神坂次郎は小説「海の伽倻琴」の中で、この説にもとづいて「沙也可」は雑賀孫一郎であるとしている。朝鮮側に寝返ったのは、孫一郎が愛していたかや姫が、秀吉によって死に至らしめられたということを大きな要因にしている。しかも、三百人の鉄砲隊を引き連れて朝鮮軍に投降して、さらに、今度は朝鮮人として日本軍に立ち向かっていくのである。日本人としては、裏切られたという以上に、憎しみを感じたことであろう。ところが、この雑賀孫一郎以下の雑賀衆は朝鮮人にうまく同化していくのである。
文禄の役の頃は、朝鮮は鉄砲を武器として持っていなかった。日本軍は鉄砲隊が突進するのに対して、朝鮮軍は弓で対抗するのである。すると、朝鮮に攻め入った加藤清正軍も小西行長軍もあっという間に朝鮮軍をなぎ倒して、北へ北へと進軍する。混乱した朝鮮国王宣祖は首都・漢城を放棄して北へと逃げるのである。
 沙也可は降倭となってからは、金忠善と名乗っている。金忠善は朝鮮に鉄砲の作り方を始めとして、その使い方や、用兵法などを伝えている。それが、慶長の役の時に功を奏したという見解を朝鮮の人たちは持っている。また、朝鮮軍の英雄、李舜臣の息子との交流や戦法上影響を与えたことなども語られている。
何はともあれ、沙也可は実在した。そして、その後も朝鮮で生き続けるのである。その子孫たちが住む村が大邱(テグ)市の友鹿洞というところにある。そこに今年の九月に行ってみたので次回はそのお話をしたいと思う。

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