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No. 30 英語教育とtranslingual ⑥【利き手とtranslanguaging】

はじめに


前回の投稿まで2回にわたって、伊藤亜紗氏の『どもる体』(医学書院)の内容と第二言語習得論 (SLA) におけるidentityとの類似点について書いてきました。もちろん吃音症を持つ人とそうでない人を同じように考えることはできないですが、第二言語学習でも「わかっていてもそう話してしまう / 言葉が出てこない」という現象はよくあるので、何か吃音症から学ぶことはできないかと考えました。意外にも類似点が多く、私自身はとても興味深いと考えました。

今回の投稿も、もう一度『どもる体』で紹介された言い換えという症状(かつ対処法)について考えてみたいと思います。前回はSLAのidentityとの類似点等を探りましたが、今回はtranslanguagingと絡めて議論していきたいと思います。

では早速みてみましょう!

吃音症の「言い換え」の復習

まずは簡単に吃音症における言い換えについて確認しておきましょう。言い換えとは、簡単に言えば難発(言葉がつまってでてこないこと)を避けるための対処法であり、違う言葉を使ってしまうという症状でもあるというものです。言い換えには以下の特徴があると前々回の投稿で確認しました。

  • 「少し先にあの苦手な単語がくる」といった予感から無意識的に回避する

  • 類語による言い換え、意味の説明による言い換え、指し示したり相手に言わせる言い換え

  • 言いにくい言葉を避けること=自分にぴったりの言葉を探すこと

また、前回の投稿では、SLA のidentityとの関連で、以下のようにまとめました。

(吃音)言い換えは「本当の自分」ではないからよくないという否定派。一方、「言い換えする自分もまた自分」と「本当の自分」を規定しないで生きる共存派。

(第二言語学習)共存派とSLAにおけるidentityは親和性が高い。Identityとは「本当の自分」ではなく、ことばによって形成、表現をするもの。

吃音の言い換え共存派と同様に、第二言語学習においても「うまく言えなくてもそれもまた自分」「発音や言い回しがネイティブのようでなくてもこれもまた自分」と思えれば、自分好みのidentityを創出、表現することができるのです。

以上を踏まえて、「言い換え」とtranslanguagingと絡めて考えてみたいと思います。

「言い換え」とtranslanguaging(利き手を例に)

まずはtranslanguagingの定義を念のため確認しておきたいと思います。No. 24の投稿で、私は以下のように定義しました。

「言語の垣根を越えて、言語を含む様々な意味資源から新しい、意図された意味を創出する営み」

これと言い換えはどう関係しているのでしょうか?

『どもる体』(医学書院)では、「言い換え共存派」の考えとして、言い換えることを利き手と逆の手を使うことになぞらえて、以下のように記されています。

たしかに、利き手でない左手を使うと、右手ほど器用には作業ができず、ぎこちなさが残ります。左手の動きは、「こうしよう」という思いを十分に反映していません。けれども、思いから半ば切断されているそれも、やはり自分の体がやった行いであることには変わりありません。ズレていても、それもまた自分なのです。 (pp. 230-231)

これからtranslanguagingと「利き手と逆の手を使うこと」(=言い換えの現象)の類似点について考えるのですが、まず明記しておきたい「違い」があります。それは、translanguagingは、「片方の手がうまく使えないからもう片方の手を使う」というように「ある言語がうまく使えないから別の言語を使う」というネガティブなものではないということです。この発想はむしろcode-switchingに近く、translanguagingとは異なります。この点は気をつけなければいけないところです。

こういった重大な違いがあるにもかかわらず、私が言い換えとtranslanguagingを絡めて考えていきたい理由は、その他の部分がとてもよく当てはまっているからです。

まず前提を確認しておきますが、語学の教室(たとえば日本の「オールイングリッシュ」を謳う英語教室)では、学習者はいわば利き手と逆の手を常に使うよう強要されている状態ということになります。利き手と逆の手の強化のためには仕方ないではないか、と思われると思いますが、指導者はかなり不自由なことを強いているということを認識しておかなければいけません。
では、この文脈で「日本語を使う」とはどういうことになるのかというと、「利き手を使う」ということになります。こうなるとはもちろん、「利き手に頼ってしまった」と捉えられるのも無理ないと思います。

しかし、ここからが本題です。
「英語(=利き手の逆の手)を鍛える教室なのだから、日本語(=利き手)を使うのはおかしい」と議論終了にしてしまうのもわかるのですが、焦点を変えると話は変わってきます。

どういうことかというと、ここでは「どちらの手を使うか」が焦点になっていますが、「両手を含めた体を使って、何ができるか」ということに焦点を変えると、利き手を使うことがさほど悪いことではないと思えてくるということです。つまり、「利き手であろうとそうでなかろうと、手を体の他のパーツ(=レパートリー)の中のひとつとして有効活用することで、その人なりの意味を持って、何か(面白いこと)を達成できれば良いのではないか」と考えられるということです。
これはTurnbull (2020)で書かれていたtranslanguagingの定義とぴったり当てはまります。

[citing Canagarajah (2013) & Vogel & Garcia (2017)]
“a practice through which speakers both possess and engage with their integrated repertoires of linguistic and semiotic resources to convey intended meaning to a particular audience” (p. 638)
言語的・意味的資源の統合されたレパートリーを駆使して特定の聞き手(相手)に対して意図した意味を伝える営み

そもそもことばとは、何か意味を伝えたり、感情を伝えたりして、何かを成し遂げるために使うものです(もちろん、languagingでもありますが)。そう考えるならば、「どの言葉を使うのか」ということに囚われすぎているのは、少しおかしいことに思えてきます。それよりも、ことばや他の意味資源を駆使して何をしたいのか、何を達成したのかということに、もっと焦点を当てるべきではないでしょうか。

少し「言い換え」から離れましたが、『どもる体』で書かれていたことに戻ると、母語を使おうと第二言語を使おうと、「やはり自分の体がやった行いであることには変わりありません。ズレていても、それもまた自分なのです。」ということになります。

この自己の捉え方が私はとてもいいと思います。
「それもまた自分」言い換えてしまおうと、母語を頼ってしまおうと、それもまた自分。言い換えや母語使用によって何かの意味を表すことができるのなら、それでいいのではないか。このような考え方が、translingual identityなのだと思います。

また、こんなふうに思えたら、語学に限らずいろいろなことで「楽」になれると思います。
私が目指したいのは、「誰も傷つかない英語学習・教育」。非現実的な目標のようですが、translanguagingを駆使することで、こんなことを英語教育の中で教えていきたいのです。

以上が「言い換え」で書かれていた利き手の例から見るtranslanguagingの考察でした。

おわりに

いかがだったでしょうか。
利き手を例にtranslanguagingを説明するのは難しい点もありますが、
「利き手もそうでない手も一つの資源」「どちらの手を使っても自分」
「言い換えも一つの資源」「それを使うのも自分」
「母語も一つの資源」「それを使うのも自分」
こんなことを学ぶことができたと思います。

念のため付しておきますが、私は「英語の授業は基本的に英語で行うべき」というスタンスです(理由についてはこちらをお読みください)。translanguagingを推奨するからといって、日本語をたくさん使うことを推奨しているわけではありませんし、安易な日本語の使用はさけるべきです。かといって、「オールイングリッシュ」のように、張り切りすぎる必要もないと思っています。その「中庸」ともいえるのが、translanguagingなのです。

結局3回にわたって『どもる体』(医学書院)について書いてしまいました(どれだけ好きなんだよ、って話ですね笑)。
自分の専門について学ぶとき、あえて少し離れたところに触れるとブラッシュアップされることもありますね。これらの記事を書くのはとても楽しい時間でした!
お読みいただいた方、ありがとうございました!


参考文献

伊藤亜紗 (2018). 『どもる体』医学書院.


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