鳳の花蔓
久しぶりの投稿です。
12月24日に読谷村文化センター鳳ホールで読谷平和コンサート「鳳の花蔓(おおとりのはなづる)」が開催されたことを30日に読谷村民の方から聞きました。
以下、少しばかりの長文お許しください。
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11月末現在で人口42,097人、「日本一人口の多い村」の読谷村は、市町村合併をせずに独自の自治を貫き「村」として発展を遂げてきています。
沖縄戦で米軍が上陸の際にはチビチリガマでの集団自決を含め多くの人々の命が奪われ、1946年11月20日頃には村土の約95%が米軍占領地であったと長年読谷村役場で勤務されてきた小橋川清弘さんは「軍用地の跡地利用と平和村づくり──沖縄県読谷村の事例」で記しています。
かつてこの「村」には「ナイキ・ハーキュリューズ基地」、核弾頭を搭載したミサイルが配備された「メースB基地」、象の檻と呼ばれた「楚辺通信施設(キャンプ・ハンザ)」などもあり、ベトナム戦争が激化した1965年には、米軍のパラシュート降下訓練で重さ2トン半のトレーラーが読谷村親志の民家そばに落下し小学校5年生の女の子が死亡する痛ましい事故も起きました。
こうした苦難の歴史に抗い諦めずに基地返還を勝ち取ってきた村民は、1974年に山内徳信村長を誕生させ、6期23年半の山内村長任期中に米軍基地の中に村民の体育施設や村役場庁舎などを建てる偉業も実現させ、当時読谷村の土地の73%を占めた米軍基地を47%まで減らしました。
この山内徳信村政を描いたのが冒頭の
平和コンサート「鳳の花蔓」でした。
トクシンさんは39歳で村長就任時から「村民ぐるみ」で村民と行政が協働した村造りを実践し、
「闘いは水の如く」
「笑いも武器」
などの言葉もおり混ぜ、それを体現し、米軍司令官などとの柔軟性に富んだ交渉や自治体外交を積み重ね、基地返還や基地建設中止を勝ち取ってきました。
アンテナ基地建設工事では工事が6割進んだ状況下、山内村長がジミ―・カーター米国大統領へ直訴状を送り、建設を中止させました。
国との関係についてもトクシンさんは「(住民に最も近い)地方は、国の先端」との矜持を貫き、今につながる日本一の「村」造りの礎を築きました。
地方の声に耳を傾けず、辺野古新基地建設の軟弱地盤改良工事で国が沖縄県にかわって工事を承認する代執行を行ったことを受けて、玉城デニー知事は12月28日の記者会見で、次の言葉を発しました。
「国策の名の下に代執行という国家権力によって選挙で負託を受けた知事の処分権限を一方的に奪うことは、多くの県民の民意を踏みにじり、憲法で定められた地方自治の本旨をないがしろにするものだ。国と地方自治体との関係を『対等・協力の関係』とした地方分権改革の成果を無にし、『上下・主従の関係』に逆行させるものにほかならない」と。
国と地方自治の関係が危ぶまれる今だからこそ、この玉城デニー知事の言葉を受け止め、かつて読谷村民が実現してきた住民自治を今一度想起することの大切さを今年の大晦日は特に強く感じます。
皆様、本年もありがとうございました。
※今回の投稿に関連して読谷村のこれまでの変遷についてわかりやすくまとまっている沖縄テレビ(OTV)のこちらの記事もご参照頂ければ幸いです。
戦後95%の土地が米軍に強制接収された読谷村 返還をスムーズにした”交渉術”と”風水”に活路も | OKITIVE
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