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あの日を忘れない(長崎原爆投下の日)1/2

1945年8月9日、長崎に原爆が投下された日です。

わたしの母、母の両親、母の弟が被爆ました。
そして、弟は今も行方不明のままです。
そういった彷徨える(さまよえる)魂が今もそこにいるのだと思います。

幼い日からわたしは母からその日のことを聞かされました。

おそらくわたしが記憶しない幼い頃から母はあの日のことをわたしに聞かせていたと思います。

そこは諏訪神社近く。
(戦争中だというのに、新築をしていました)
お昼前、食事の支度をしていました。

作業する大工さんたちもいました。
それが突然上空に現れました。

一機だけだったせいか、空襲警報もないまま、それは何かを投下したのです。

大工の1人が、
(わたしの記憶が曖昧)
「警報鳴らんとおかしか、落下傘が降りてくる、防空壕にいくか。」
他の人の声
「もう間に合わ。。。」言い終わる前に

強い閃光が光ったかと思うと、(母の体が)爆風と共に浮き上がり、投げ飛ばされました。
すると、次の瞬間、ふわと何か着地して。。。。

どれだけそこにいたのだろう。
目覚めると全身に痛みをかんじた。

そこは、建築中の家の奥の部屋に積み上げていた布団の上だった。
そのおかげか大きな怪我をしなかった。

外へ歩いていくと、みんな怪我をしていた。
母の母(祖母)は立てかけていた角材が頭にあたり、怪我をしていた。
のちに母は笑いながら話してくれた。
「大怪我だったのに、赤チンだけで治しちゃったのよね。」と。

祖父は、当時勤めていた三菱造船所を体調が悪いと早退していた。
これが幸いしたのだった。三菱造船所にいた方はほぼ亡くなったそうだ。
のちに東京から人が来て後処理に当たったそうだ。

幸いと言っても、上半身裸でいた祖父は背中を酷くやけどしていた。
やけどによく効くと、後(のち)に嬉野温泉で療養に行った。
ケロイド(やけどの後)はしっかりおじいちゃんの背中にあった。

昼ごはん支度をして外にしゃがんでいた母には爆風が来た側の膝や足の甲にケロイドがあった。

母は、目覚めた後、何度も嘔吐し、水を飲んでは嘔吐したそうだ。

「それが幸いだったのね、街の方の人は見かけは怪我していない人も後から亡くなったのよね。おそらくガスを吸って内臓が傷んだのね。」

続く

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