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魔斬

第3話 安政奇譚③
 
 この日、一〇月七日。尊皇攘夷者でしられる橋本左内を試し切りの刀で仕置する。
「時代は変わるんだよ。それを見られないことだけが、残念だ」
 橋本左内は微笑んだ。
「御免」
 御試の刀が、一閃した。
 小塚原ではよくある光景だった。浅右衛門は斬り口を検分し、脇の番所で緻密な報告書を認めると、その場で腰物奉行へ提出した。
 泰平の世が続くと、冷静に骸を静観できる武士も少なくなる。それだけに、この報告書は、誰もが納得する内容であった。
「相変わらず、見事なものじゃ。これなら御老中にも御見せが適う」
「そんなもの、老中が見ても面白くもないですよ」
「そうでもないらしいぞ」
「して、この肝は頂戴出来ますのか」
 浅右衛門はじっと、腰物奉行をみた。
「いや、これはならぬ」
 めずらしく、腰物奉行が狼狽えた。
「それはおかしい。仕置の骸より肝を得るのは、山田家の特権だが?」
「それは承知しておる」
「ならば」
「これは別じゃ、これはならぬ」
 なかなか手に入らぬ良き肝なのにと、浅右衛門は不貞腐れたように呟いた。
「あのな、この者はならぬのよ。ただでさえ、今度の仕置は尊皇攘夷の輩の恨みを買っている。それらが逆上して、市中で狼藉に及んでは、なにかと面倒なのじゃ」
「儂にはそのような理屈は解らぬ」
「なんだと?」
「怒りなさんな、いつものように催促したまでよ」
 浅右衛門は静かに笑った。
 仕置の少ないときは、日の高いうちから山田浅右衛門は帰宅が許される。橋本左内の仕置が済んだその日も、早々に北町奉行所を辞した。まだ四つの刻頃で、真直ぐ帰るには早過ぎた。
(……穢れたしな、お参りでもしていくか)
 浅右衛門はその足を、浅草寺に向けた。
  浅草寺は、江戸でも特に庶民的な信仰場である。徳川家庇護の寺社仏閣のなかで、これほど手放しで庶民の信仰に支えられた場所も珍しい。
 山田浅右衛門は生気に溢れた喧騒が好きだ。時おりこうして、浅草寺の人混みを徘徊するのである。気が向いたときに来るには、程よい場所にあるのも堪らない。この日も、いつものように、何の考えもなしに浅右衛門は徘徊していた。
 と。
「あっ旦那」
 人込みの中で、埃塗れの男が浅右衛門をみつけて手を振った。浅右衛門は一瞥しただけで挨拶もせず、足早に立ち去ろうとした。しかし、その男は素早く人込みを擦抜けて、あっという間に浅右衛門の前に立った。
「駄目ですよ、逃げるなんて、野暮ですぜ」
 煤だらけで妙に垢抜けた身形の男は、にこにこしながら浅右衛門を見上げた。やれやれと、浅右衛門は溜息を吐いた。
「お前さんが来たって事は?」
「お頭から」
「はあ」
「そう、是非にも旦那に仕事をお願いしたいって、お頭が譲らないんですよ」
 男は水飴をしゃぶりながら、にこにこと笑っていた。
「俺は昨夜もやったばかりだよ。しかもタダ働きさ」
「存じておりますよ。いつもながら、惚れ惚れする手際で?」
「てめえ、助六。見てやがったな」
「なんで怒るかなあ、褒めているんですよ」
「うるせえ」
 この助六と呼ばれた男、浅草弾左衛門配下の革職人である。無論、これは表向きの話だ。裏では山田浅右衛門に魔斬の依頼を持ち掛ける繋ぎ役。そして魔斬の依頼を江戸中より請負う元締こそ、関東長吏頭として知られる浅草弾左衛門なのである。
 しかし、山田浅右衛門は、決して浅草弾左衛門の配下ではない。昨夜のように、普段は直接の仕事を請負う。それが基本だ。浅草弾左衛門のことを元締と呼ぶのは、たまさかにその手伝いをするからだ。
 浅草弾左衛門が請負う魔斬業は、その配下が請け負う。山谷堀には、その稼業の者がいる。しかし魔斬の男よりも強い化け物を相手にするときは、浅草弾左衛門の判断で山田浅右衛門に助けを求めることになっていた。手に負えぬ難物を浅右衛門が魔斬するのだ、当然、報酬はよい。
「さあさ、旦那。お頭が御待ちでさあ」
 助六に引っ張られるままに、浅右衛門は山谷堀へと引き摺られた。
(やれやれ)
 その顔には、すっかり諦めの色が浮かんでいた。

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