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高野口合戦

高野口合戦という名前はメジャーではない。しかし、対峙したのが織田信長と武田信玄と聞けば、俄然、見方も変わる。
通説上、両名は直接の武力対決をしていない。
この高野口合戦は『信長公記』にのみ記されるもので、その他の文献にはない。ゆえに真偽の程は定かでないが、この戦いの後に、信長は甲斐との講和にとりつけ、信玄は駿相二国との盟約破棄に至るのだから、何かしらのきっかけにつながった、幻の戦いに違いない。

永禄八年三月、秋山伯耆守信友率いる伊那勢は、信玄の命令で木曽谷に布陣した。援軍である諏訪衆の先頭に立つのは、若き諏訪四郎神勝頼である。信玄の指示は、ただちに東美濃へ攻め入るべし、というものだった。
旧暦三月を新暦に正せば五月初旬。木曽から東美濃への路は木曽川沿いに下るのが最短である。そして、東美濃は織田信長が抑えてから、まだ日も浅い。武田領に接する遠山家は、武田に属しながら織田にも与する両属豪族。おそらく武田勢は苗木城に入り、遠山氏は饗応に振り回された事だろう。
当時の信長は美濃平定の途であり、小牧山城に居を構えていた。武田勢の襲来は、信長にとって青天の霹靂であり、武力衝突を避けるため苦慮した事だろう。
このとき尾張以来の古参や主力は稲葉山城攻略に割かれており、信長が手配できたのは東美濃の新参豪族。一歩間違えれば、丸ごと武田に靡く。求心力を維持するためには、信長自らが采配するしかない。
このとき信長が籠城の場に選んだのが、高野城だった。
高野城は神箆城とも鶴ヶ城とも呼ばれ、土岐川西岸の山地にあって南東に張り出した尾根の頂部に主郭を構える、見た目が鶴翼のような縄張りだった。信長着陣までの間、高野城の指揮は森三左衛門可成が執った。森可成は美濃新参、ここで功を挙げる必要を覚えていた。森可成は城門を開いて、武田勢へ挑んだ。この戦いで可成被官である道家清十郎・助十郎兄弟は、武田方の頸三つを討った。この功に対し、信長は無地の旗に〈天下一之勇士也〉と記し、恩賞として兄弟に与えた。

その後の信長は講和交渉を求めた。
信玄は講和を受け容れることで手打ちとした。信長は九死に一生を得たことになる。
さて。信玄はこのとき信長との講和を、どうして受け容れたのだろう。『甲陽軍鑑』や『信長公記』にはない、行間の世界。まだとるに足らぬ信長は信玄の敵ではない。にも拘わらず、講和をするべきメリットが、このとき信玄にはあった。
この年、武田家を揺るがす〈義信事件〉が生じる。
内憂の危機を回避するための腐心が、このとき信玄の優先課題だった。信長と通じ、同盟者・松平家康ともつながる必要があった。それは、義信事件の背後に見え隠れする駿河今川家との対決に関係するものだったのかも知れない。

高野口合戦は、武田方の記録にない。
小さな局地戦である。が、こういう小さな衝突で、歴史に埋もれた名勝負も存在するのではあるまいか。


この話題は「歴史研究」寄稿の一部であるが、採用されていないので、ここで拾い上げた。戎光祥社に変わってからは年に一度の掲載があるかないかになってしまったので、いよいよ未掲載文が溜まる一方。
勿体ないから、小出しでnoteに使おう。
暫くはネタに困らないな。
「歴史研究」は、もう別のものになってしまったから。