会津のまこと
長編に過ぎて長くお蔵にある夢酔作品がある。
主人公は、日向ユキ。
会津藩士・日向左衛門の次女で、大河ドラマ「八重の桜」で剛力彩芽さんが演じた。大河好きな人も、せいぜいそれくらいの知識だけで、まあ、ドラマ内で、お城に入ることが出来ず薩長の目を掻い潜り戦さが終わるまで逃亡したという印象、だろうか。
しかし。
会津の人の潔さと公徳と誇りを描くのは、本当は新島八重よりも、この日向ユキであるように思えていた。この人物をモデルにした小説がある。津村節子 氏の『流星雨』である。人物名は、全くの別人にしているが、ほぼユキの足跡を追っている。
会津戦争が終わるまでの逸話は、新選組ファンの後押しもあってか、幕末ファンをはじめとする方々により、存外関心が寄せられる。
戦中、戦後。
会津の領民と藩士の間に乖離する感情の深さや暗さは、実は、あまり気付かれないのではなかろうか。会津武士道の質実剛健な清廉なる姿、反して身分に律し武士以外への厳しい姿勢は究極の封建社会。夢酔はその闇とが気になっていた。
さらに、報復に徹する勝者(長州)の驕り、集団リンチという仕打ちに等しい斗南の地獄。その先のこと。会津にとっての不幸は、会津戦争以降のことである。これが、かなり気になっていた。
日向ユキという人物は、一種、その時代のきまぐれが生み出した陽性の個性だったのではあるまいか。
本人はきっと苦悩し、藻掻き、生きていくべき道を手探りで探しただろうと思うが、結果として、清涼剤を飲み干したような「救い」の光をみつけることができるのだ。
父・日向左衛門は会津藩の上士で、御旗奉行を務めた。
母・ちかは会津藩士の飯沼粂之進の娘。
ちかの姉(ユキの伯母)は家老・西郷頼母の妻・千恵子である。
実は、家柄もよい。
さらに云えば。
白虎隊士・飯沼貞吉はユキの母方のいとこ。明治の陸軍軍人・柴五郎は父方のいとこに当たる。
血縁も、幕末世界の歴史に少なからず関与する。
日向ユキは驚異的な記憶力の持ち主といわれ、晩年、自らの激動の生涯を綴った手記「萬年青(おもと)」を残している。
この手記は昭和50年(1975)にユキの子孫から宮崎十三八に託され、昭和52年(1977)会津史学会発行『歴史春秋』第9号で発表された。後にこれは、新人物往来社刊『会津戊辰戦争史料集』内の一篇として書籍化されている。
ユキは仇敵である薩摩出身者との結婚を、苦悩の果てに成した。これは旧敵同士であった会津出身者と薩摩出身者が結婚した最初のケースである。
しかし、同時にユキは、二度と会津を土を踏めぬ十字架を負ったように思う。
事実、帰郷は終生、なかった。
夢酔が描いた日向ユキの物語は膨大なページ量のため、もう5年はお蔵入りとなっている。
「光と闇の跫(あしおと)」のように、膨大でも陽の目をみる機会があればいいのだがと、考えてみては、いろいろと躊躇している。会津人を主軸にするあまり、長州を悪しく描いているのだから仕方がないのだが、この躊躇いにはいつか終わりが来るのだろうか。
一応、あらすじを置こう。
会津藩士の娘・日向ユキ。少女の季節を会津で過ごした彼女にとって、戊辰の戦さは忘れることが出来ない。ユキと家族と知人その他、藩のすべてを巻き込んで徳川へと尽くした会津藩。目覚ましい功績があるがゆえ、長州の憎しみを一身に被った。鳥羽伏見からはじまる戊辰の戦場。戦火はひたひたと会津に迫り、やがて非戦闘員を中心に老若男女、武士道すら持たぬ長州の下郎たちに蹂躙されていく。登城の触れがあっても入城できなかった日向家の女たちは、日頃の気構えが幸いし使用人の農家へ生きて逃れる。
死んだ方がましだ。いや、死しても尚、死姦される女。埋葬さえ許されぬ男。会津へ向けられた長州の憎悪は、同時に会津人にとって未来永劫忘れることのできない恨みへ結びつく。
そして一般流刑と呼ぶに相応しい斗南藩への移住、移住してすぐに行なわれた廃藩置県。会津人への仕打ちは、かくも惨い。その厳しい環境の中で、天性の明るさを失わない日向ユキに家族はどれほど救われたものか。陸奥の最果て青森の地で、歯を食いしばるユキ。家族を食べさせるために働く彼女に、箱館商人への女中仕事が求められる。武士の娘と気取ることは許されない、ユキは意を決し、津軽海峡を渡る。
ユキにくる縁談。
相手は、長州と手を組んだ憎むべき薩摩の男だった……!
明治を生き抜いた女の苛烈な足跡を描く。