魔斬
第4話 安政奇譚④
「やあ、旦那。久しいね」
「てやんでえ、呼んでおきながら、久しいも何もねえや」
一見人の良さそうな男を一瞥して、山田浅右衛門は諦観の笑みを浮かべた。
彼こそ表の顔は〈関東長吏頭〉、裏では〈闇公方〉と称され江戸裏社会の誰もが震え上がる大物・浅草弾左衛門である。七四〇坪の巨大な屋敷の玄関に下駄を脱いだ浅右衛門を、弾左衛門は慇懃に離れの間へと案内した。
「のう、お頭」
「なんだい」
歩きながら浅右衛門は、今度の魔斬はどんなものかと訊ねた。
「報酬が心配なのかい?」
「それもあるが、仕事の内容だよ」
「そのことなら」
「妙な尻尾なんか、付いてねえだろうね」
「ははは、出処は間違いねえよ。御大名様からの御依頼じゃもの」
「……大名ねえ」
「それから先は、ほれ、離れで話をしようじゃねえか」
離れの入口には、車善七が控えていた。
「離れには、誰も寄せるんじゃねえぜ」
弾左衛門は車善七へ口早に命じた。離れの間には浅右衛門と弾左衛門、そして繋ぎ役の助六。助六はそっと戸を閉めると、閂(かんぬき)をして、その場に控えた。
浅草弾左衛門は上座に座り、その向いには山田浅右衛門が座る。
小声で囁くように
「大きな声じゃあ云えねえけどよ。旦那、依頼の出処はな、徳川御三家だ」
「なんと」
「水戸藩だよ」
山田浅右衛門は仰天した。
「旦那は、生(いき)人形って知ってるかい」
「ああ。からくり人形師の松本喜三郎が創った、あの生人形だよな?」
「そう、そいつだ」
松本喜三郎は肥後熊本の出身。絡繰人形師として様々な傑作を発表している。近頃では、安政二年に発表された絵師・国芳が描いた浅草寺奉納の浮世絵に触発されたと称し、鬼気迫る鬼婆の生人形を造った。浅草の見せ物小屋でそれを興行したのは、つい最近である。
「でも、あれは……」
浅右衛門は制した。
たしか、生人形は事件の原因だとして、浅草伝法院に預けられている筈だ。
「鬼婆と一緒に興行されたお初人形の妖艶さに、水戸藩の侍が木戸銭を踏み倒して、たしか乱闘騒ぎをしたんだよな」
「そうさ。喜三郎の生人形は、実物の女よりも艶かしい。それで水戸の藩士が血迷うたのだ。助平ひとりに、馬鹿々々しい話さ」
「ならば、ますます水戸藩はこの一件から敬遠したがるだろ?恐れ多くも徳川御三家が、たかが人形如きで、そこまで深入りするとは思えねえが」
弾左衛門は首を振った。
「お初人形じゃないんだよ」
「え?」
「鬼婆の方さ」
鬼婆の生人形。
「ああ、あの見事だという噂の?」
と、山田浅右衛門は聞いた話を思い出した。さながら〈安達ヶ原の鬼女〉を彷彿させる力作という噂だ。鬼婆も生々しいが、腹を裂かれる女など、まるで本物を観ているようだと、世間では高く評価している。
「鬼婆の生人形にはね、魂があるんですよ」
「まさか」
「信じられないでしょうが、旦那。これは、本当の話なんでさ」
「それと水戸藩の関係が、どうも読めぬが」
助六が取り次いだ茶を啜り、喉を湿らしながら弾左衛門は咳払いをした。浅右衛門も茶を含んだ。
「水戸藩としては、醜聞は払拭したいと」
「醜聞?」
「伝法院に納められている生人形、夜になると、生きているように呻くのだそうですよ。お初人形目当てにこっそり伝法院に忍び込んだ、水戸藩のさる御方が、それ以来おかしくなっちまってね。上野寛永寺の坊主に祈祷させたところ、生人形を供養すれば、元に戻るだろうとか」
「ところが気味悪がって誰も手を出さない。昼でもおっかなくて、それでお頭のところへ依頼が来た。そういう筋書きかい?」
「そのとおり!」
「ならば、お頭のところの若い者を使えばいい。儂の出張る必要なんて」
「あるのだよ」
えっと、浅右衛門は顔を上げた。
「泣くんだ。鬼婆の生人形が、呻きながら血の涙を流すんでさ」
「そんな事くらいで……」
「どうも鬼婆の妖気が、尋常ではねえんだ。試しにうちの若いので様子見させたんだが、妖気にあてられて気が触れちまった。近付くことさえ出来ねえんだ」
帰ってもいいか、浅右衛門は云いたかった。
「こいつは旦那に頼むしかない。こういうときこそ、旦那の出番でさあ。まあ、そんなわけでさあ」
やれやれと、浅右衛門は溜息を吐いた。
「まあ、論より証拠。伝法院へ行ってみなせえ。おい、助六。旦那を御案内して差し上げろや」
「あ……あっしが?」
「馬鹿野郎、手前ぇ以外に誰がいる」
「酷ぇや、お頭。近づくことも出来ねえって、いま云ったばかりじゃねぇですか」
「安心しろい、手前ぇが死んでも、盛大に線香くらいは手向けてやるぜ」
「へえ……」
助六は泣きそうな顔で、俯いた。
「それと……旦那」
「あ?」
「これは真面目な話ですがね」
「これ以上、真面目な話があるのか」
「へえ」
浅草弾左衛門は真顔だ。
「うちの生抜な奴、魔斬を強行したんですがね」
「どうなった?」
「失敗っておりやす。返り討ちに遭って、遺骸は浄閑寺の脇に転がっていたんですが、そりゃあもう、惨たらしい死に様でさあ」
「あい判った」
山田浅右衛門も真顔になっていた。
そして
「一旦戻って、大太刀を取ってくる」
と、席を立った。