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異形者たちの天下第4話-11

第4話-11 大坂という名の天国(ぱらいそ)

 短い講和期間が過ぎ、大坂と徳川が再び戦闘状態になったのは慶長二〇年四月二六日のことである。この日、大坂城首脳陣のひとり大野修理亮治長が大和へ長駆し郡山城を占拠した。大野治長は更に奈良へ攻め掛け、その後に大坂城へ引き揚げた。天下の名城で知られる大坂城も、外堀内堀が埋め立てられてしまえば張り子の城である。野戦に徹する以外に勝機は微塵もない。
 この期に及んで徹底抗戦することこそ愚といえたが、もはや大坂城に集う者の大半は
「死に華」
を望む者たちばかりであった。これを無理に押し留めれば豊臣秀頼でさえ殺されかねない狂気の巣と化していたのである。
 秀頼と淀殿を有利な立場に置いたうえで家康と講和しようと模索していた大野治長は、自らが率先して先陣に立たねば指導力を失う事態に追い込まれていた。そんな兄を哀れと思う反面
(淀の言いなりで何とも女々しい)
と蔑んでいたのが、弟・大野主馬治房である。彼は淀殿と実の兄が不義密通の関係にあることを未だ知らない。だから終始淀殿に腰の低い兄の秘密を知らず歯痒さを痛感していた。
 とまれ大坂夏の陣はこの野戦により勃発した。
 二日後の二八日には大坂勢は堺へ進撃し、秀吉死後に徳川へ変節した貿易港へ恨みの焼討ちを加えた。このときの被災により、堺は再起不能の壊滅状態に陥るのである。徳川家康は三月以降、大坂包囲陣を敷くため諸大名に京都近郊へ出兵を命じていた。これらの軍勢に進撃を命じたのは、一連の大坂方による軍事行動の末である。
 五月五日、家康は二条城より出陣し河内星田に布陣した。同日、徳川秀忠も伏見城を出で河内砂に布陣した。星田も砂も大坂と京を結ぶ街道筋にあたり、すなわち家康は意図的に交通の要衝を抑えたことを意味する。また大坂と大和を結ぶ街道も別働隊を以て押さえた。こちらの総大将は松平上総介忠輝、その脇を支える副将を伊達政宗が任じられている。家康は大坂城のキリシタン武士たちの戦意喪失を促すために、忠輝を前線に晒したのだ。更にいうなら、ここで忠輝が死んでくれるとなお有難い、そう心の奥で願っている。そんな家康の心中を洞察するかのように、伊達政宗は精鋭を以て忠輝の身辺を警護していた。
 このように両陣営の緊張はピークに達していた。
 このとき大坂城にはキリシタン武士とともに多数の導師(パードレ)も入城していた。それらの伝手から
「さる二月五日、マニラにて高山右近殿、天に召されまし」
という報せが明石掃部助全登に報されたのは、丁度この頃である。明石全登はハラハラと泪を流し
「主に導かれて召される者もいる。天国(パライソ)に召されるジュスト(高山右近の洗礼名)殿が羨ましい限りじゃわ」
と十字を切った。すると明石全登に従うキリシタン武士八千も揃って十字を切り天に祈りを捧げた。キリシタンでない者たちには異様な光景だが、主戦派の連中は不思議とその儀式を厳粛に見守った。
 真田幸村を始めとする多くの者たちはここを死に場所と定めているから、彼らが死して求める天国(パライソ)に何となく共鳴していた。既に四月二九日の戦いで塙団右衛門直之は討ち死にしている。誰もが己の死を厳粛に受け止めていた。
 主戦派を代表して真田幸村が
「家康本陣への急襲」
を検索したのは間もなくのことである。
 大野治長にはこれを采配する力がなかった。主戦派がやると断言したことを黙って見ていることしか出来ない。そして彼らが一様に死にたがっていることを、死して名を残そうと躍起になっていることを、痛切に思い知らされる。
 五月六日、道明寺合戦。この戦いで後藤又兵衛基次討死。
 同日八百・若江合戦。長宗我部宮内少輔盛親・木村長門守重成討死。
 五月七日、天王寺・岡山合戦。真田左衛門佐幸村、家康本陣急襲し幾度も危機に貶めた末に討死した。またこの日、明石掃部助全登も奮戦の末に行方不明となった。キリスト教では自殺が禁じられている。だから討死にしたか、若しくは生き果せたか、少なくともこの合戦で明石全登はその行方を忽然と消すのである。
 多くの勇将が大坂を枕に殉死した。
 豊臣家のためか、武士として最期の意地か、答えはどこにもない。ただ彼らは死すべき刻を違わず望むままに死んでいったのである。
 討死にしたそのすべてがキリスト教の信者ではない。
 が、誰もが天国(パライソ)を求めて討ち果たされたように思えなくもない。そして見事に死んだからこそ、敵にその名を刻んだといえよう。これこそ戦国武将の、本懐と呼べるものではあるまいか。
 しかし、この期に及んで豊臣秀頼・淀殿母子は、未だ生き長らえんと足掻いていた。この日、大坂城本丸は陥落した。豊臣首脳陣は山里曲輪糒蔵に立て籠もると
「千姫引渡し」
と引替に秀頼母子の助命嘆願工作をした。しかし家康は断固としてこれを認めようとはしなかった。
「万策尽き果てて候」
 大野治長は淀殿の面前に平伏すと不甲斐なき仕儀を詫びた。詫びながら泣き崩れた。
「せめて石田治部が参じてくれれば、このような辱めを被らずに済んだものを……」
 そう呟くと、不覚にも淀殿の胸中に込み上げる激情が溢れた。それは目の前に迫った死への恐怖であった。
「いやじゃいやじゃ……わらわが何をしたというのだ。何で死なねばならぬ」
 取り乱し泣き叫ぶ淀殿の醜悪な様は、豊臣の晩節を汚す一幕に過ぎない。淀殿に倣い女どもも嘆き叫ぶ。自分たちの増長が豊臣家を灰燼に帰する仕儀に至った自覚は皆無だった。
 このとき秀頼の近従護衛として真田幸村の嫡男・大助信昌が傍らに控えていた。大助は十四歳なれど先の真田丸の一戦で初陣を飾り、さすがは真田の子よと諸将に感嘆せしめた人材である。その大助の耳元に
「秀頼君御逃し候え」
と囁く声がした。あっと顔を上げる大助の目に映るものはない、ただ、耳に残った声は幻聴ではなかった。憶えのあるその声の主は、猿飛佐助のものである。
 真田幸村は決戦に臨み、佐助を介して薩摩の島津家久と交渉していた。
 きっと大坂は敗れる。そのときのため、秀頼を匿う工作を勝手に展開していたのだ。佐助だけでは心許ないと、密かに助力していたのが島左近勝猛である。無論、このことは大野治長には内緒だ。もし知れば治長は淀殿も生かそうと横槍を入れるに相違なく、そうなれば纏まるものも纏まらなくなるだろう。
「そのときは、そちが秀頼君をお守りせい」
 これが大助に遺した幸村の遺言である。
 だから佐助の言葉を聞くや
「泣いて死出には行け申さず。酒を候え候え」
と大助は叫んだ。場違いすぎる明るい声に皆は呆気にとられたが、他にすることもなし、蔵のなかの酒を呷り始めた。云うに及ばずこの酒は佐助により眠り薬が盛られているから、大助を除く誰もがそのまま眠り込んでしまった。
「佐助、出口は」
「抜穴がござります。秀頼君の甲冑を雑兵に替えて怪我人に仕立てます。これなら怪しまれずに外へ運べまする。大助殿も人足服に着替えて下され」
 こうして山里曲輪から豊臣秀頼が消えたことは、余人の預かり知らぬところとなる。眠り込んだ彼らは朝まで起きることはなかった。そして翌朝、焦れた徳川勢の放った鉄砲の流れ弾が蔵の火薬樽に命中し、轟音を発して大爆発したのである。
 かくして豊臣家はこの世から消え去った。
 この大坂夏の陣には、汚名返上を試みた服部半蔵正就の姿もあった。彼は先陣・松平忠輝の先方として控えていた。五月七日、真田幸村突貫による混戦のなか、これへ果敢に挑み奮戦虚しく討死にした。
 味方にも朋友にも知られることなく、正就はただただ天王口の片隅でひっそりと骸を野辺に晒していた。その血にまみれた甲冑武具もすぐに地元農民によって奪い盗られ、骸は丸裸にされて捨てられた。
 その哀れな倅の骸の傍らで、服部半蔵正成は声を上げて泣いていた。

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